手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

いただく

大阪の念仏詩人といわれた榎本栄一さんに、
泥んこ
私の泥んこの底が
浄土の入り口になっていた
 (『煩悩林』五九頁)
という短い詩があります。この「泥んこの底」とは、おそらく自分を取りしきっている煩悩と、それ故にこそ罪業の明け暮れを余儀なくされる自己のかなしいすがたを表現したものと思われます。それがなぜ「浄土の入口になっていた」といい得るのか、ここに極めて大事な問題があると思われるのです。
 この詩人は「浄土の入口になっていた」と過去完了形で表現しています。それは、如来がこの私たちのすべてを見抜いて誓願を立て、煩悩ある身をそのままに救いとる願力をすでに成就して、まちがいなく浄土へ迎えとらんとされていることを示しているのです。
【ことば-仏教語のこころ- 藤澤量正 本願寺出版社 P99、P100より】

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 浅原才市さんは、「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」と表現されました。また、竹部勝之進さんは「タスカッテミレバ  タスカルコトモイラナカッタ」といわれています。このことは、今回紹介しました榎本栄一さん「泥んこ」と通ずるところがあります。つまり、阿弥陀さまの救いは、すでに成就(完成)されているということです。ですので、わたしは、すでに成就(完成)された南無阿弥陀仏を「いただく」ことが大事になってきます。敢えて自分からこしらえる必要はありません。南無阿弥陀仏をいただくということは、別な言い方をしますと、(すでにはたらいている)南無阿弥陀仏のはたらきに気付く、阿弥陀さまにおまかせする、ということです。
 「求道」という言葉がありますが、「自分の力でなんとかなるさ」的な自力的な意味合いが否めません。浄土真宗の教え(他力の教え)からいいますと、「求める」という言葉より「いただく」という言葉が相応しいと思います。敢えて、「求道」という言葉を使うのであれば、その求めさせるはたらきも南無阿弥陀仏(阿弥陀さま)に依るもの、としっかり補足したほうが分りやすいと思います。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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