『阿弥陀経』の中に、お浄土の池には「八功徳水(はっくとくすい)が満ちていると説かれています。このことは浄土には〝八種類の特別なはたらきを、功徳を具えた水〟があるということではありません。お浄土の水も、娑婆の水も、地獄の血の池の水も、〝H2O〟以外にはありません。ただ、その〝H2O〟をどのように感受するかが問題です。「水」の意義を水道代で考えるのか、万物を潤し、生かす無限のすばらしさを感受するか、その違いです。
浄土は「有るか」「無いか」ではわかりませんし、味わうことはできません。その経説を豊かに感受する「心」が開かれなければ、受け入れることはできません。それを通して、自身の不実性が知らされていくのです。それが浄土のはたらきであり、真実のはたらきでもあるのです。
【無明の酔いをさます阿弥陀仏の薬 天岸浄圓 自照社出版 P 70、P 71より】
水は水です。それ以上でもそれ以下でもありません。受け取り手である私の感受性によって、水の捉え方が違ってきます。
南無阿弥陀仏のはたらきも然り。
受け取り手の私の感受性によって、全く意味合いが違ってきます。その受け取り手である私の感受する心もひっくるめて阿弥陀仏さまはサポートしてくれます。他力といわれる所以です。 ですので、私はといいますと、阿弥陀さまに「ただおまかせ」です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏