手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

頭でこさえたものは間にあわん

 「頭でこさえたものは間にあわん」。この言葉は、いまでも法語カレンダーなどで見かける。詠み人の名が一緒に記されているものもあるが、本来は詠み人知らずで,、昔の真宗門徒に広く膾炙(かいしゃ)されていた言葉だ。
 話し相手の失敗談が愚痴に変わり、やがてその愚痴が尽きたころ、それまで黙って愚痴を聞いていた門徒の口からひょこっとこの言葉が漏れる。「頭でこさえたものは間にあわん」。そう言われた相手が多少なりとも仏法を聞いていれば、その一言に、自分のはからいの愚かさと人間理論の限界を言い当てられたことに気づくだろう。しかし、自分の心にはそうは受け取られない。「間に合わない」と言われたら、今度は間にあうものを探そうとする。それこそ頭上に頭を積む(分別の上にまた分別を重ねる)ことだ。
 「間にあうように、間にあうようにって、仏法を利用しとったら、もうも(絶対に)聞こえんと思うですよ」と、仏教者の坂木恵定(さかきえじょう)氏も語っておられる。
【門徒ことば 三島清円 法蔵館 P20、P21より】
※膾炙(かいしゃ):世の人々の評判になって知れ渡ること



「頭でこさえたものは間にあわん」
南無阿弥陀仏を語る上で、とても的を射た言葉です。
頭でこさえている人は、いうならば、自分にしか目が向いていない、自分に自信がある人、といってよいでしょう。
南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている現状であるならば、その現状に気付かせてもらえればそれでよい、のではないでしょうか。
どうしても自分自身に傾いてしまうところを、ちょっと視点を広げる柔軟さが大事だと思います。そこに、「気付き」があります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏