手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「私の」生死問題

 私たちは、「今日のご法話は、いいご法話だった」と思うことはあっても、なかなか「私のためのご法話だった」とは思えないものです。つい、「あの人に聞かせるべきご法話だった」とか、「なかなかあの人は、ご法話を聞かないからね」と、他人事にしてしまいます。もちろん、ご法話を聞いた喜びを他の人とも分かち合いたいという思いは、報恩感謝という意味では大切なことなのですが、肝心の「後生の一大事」ということを忘れてしまいがちです。お聴聞とか、信心というのは、誰にも代わってもらえない私の人生を、私自身がどう生き抜くかという問題ですから、それこそ一人一人の問題なのです。
 親鸞聖人は『歎異鈔:』の後序に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」といわれています。これは、親鸞聖人ただお一人のためのご本願である、ということではありません。仏さまは私たちに対して「十方の衆生よ」とよびかけられますが、私にとっての「仏さまと私」の関係は、つねに一対一であることを知らせてくださった言葉なのです。たとえば四人の子どもを持つ親が、子どもたちみんなに「子どもたちよ」とよびかけたとき、子どもたちはそれぞれ「親が私をよんでいる」と思うのに似ています。つまり、仏さまが「いつでも」「どこでも」「誰に対しても」等しく「あなたがたは私の子どもだよ」とよびかけてくださるとき、私たちは「いま」「ここにいる」「この私」を仏さまがよんでくださっている、と聞かせていただくのです。
【親によばれて(84号より) 藤澤信照 響流書房より】



真実信心の行人臭いものには蓋をしろ的発想なのか、生死問題においては、なかなか自分の事として捉えることは難しいように思います。他人さまは死んで逝くが、わたしは死なない、という根拠なき自信があるのでしょう。
阿弥陀さまと私」、一対一で向き合っていきたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏