手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真実信心の行人

親鸞聖人は 、お弟子に宛てられた手紙の中で 、


真実信心の行人は 、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す 。このゆゑに臨終まつことなし 、来迎たのむことなし 。信心の定まるとき往生また定まるなり 。来迎の儀則をまたず 。


といわれています 。
 親鸞聖人の頃までは、浄土の教えといえば、臨終の時に仏さまのお迎えがあって、浄土に往生させてもらう 、という考え方が一般的でした 。ですから、臨終の良し悪しが往生できるかどうかの大問題だと考えられていたのです 。
 それに対して、親鸞聖人はこのお手紙に「来迎の儀則をまたず 」とあるように 、臨終の行儀を調える必要もなく、臨終の良し悪しを問題にすることもない、といわれたのです 。
 はじめに「真実信心の行人」とありますが、まず「行人 」とは 「南無阿弥陀仏 」と、お念仏を称える人のことです 。この六字には往生成仏すべき功徳がすべてこめられており、お念仏は阿弥陀さまによって選定された 「大行 」とよばれる行なのです 。よく、浄土真宗には「行 」はないと勘違いされる方がありますが 、「行 」のない仏教はありません 。浄土真宗には 、阿弥陀さまから与えられた 「お念仏する 」という 「大いなる 、すばらしい行 」がある、ということを心得ておきたいものです 。
 さらに、ここで「真実信心の行人」といわれているのは、わが口で称える「南無阿弥陀仏 」を、「必ずたすけるぞ、我にまかせよ 」という「阿弥陀さまの喚び声 」であるとわが耳に聞き、「必ず浄土に往生させ、仏の悟りを開かせるから、安心して自らの人生を生き抜いてくれ 」と、阿弥陀さまが私に告げてくださっているのだと聞き受けている人のことでした 。
 「真実信心の行人 」は、阿弥陀さまの救いの光の中に包まれている人であり、その救いからけっして漏れることはなく、この世のいのちを終える時には、浄土に往生して仏の悟りを得ることが 、今すでに決定しています 。ですから「正定聚 (仏になることに決定した仲間)」といわれたのです 。この人は阿弥陀さまと共に、苦難多き人生を、浄土に向かって力強く生きていくことができるのです 。
【親によばれて 来迎たのむことなし(108号)藤澤信照 響流書房より】



「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの 親(仏)の呼び声」
と詠んだのは、明治維新の偉大な学僧、原口針水 和上です。自分(わたし)が称える念仏でありながら、それはそのまま、阿弥陀さまの呼び声である、といわれました。ほぉ〜、という言葉しかでませんね(笑)。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1281667313180/files/002.PDF