手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

煩悩具足の聖者

 思い返せば 、大学時代 、行信教校への入学を決意した夏の日 、たまたま仏教青年会の早朝奉仕作業で本願寺鹿児島別院に来ていて 、その後 、お参りしたお晨朝の法話に出講されていた梯實圓(かけはしじつえん)先生から聞かせていただいたご法話によって 、私は進むべき方向を決めたのでした 。そして行信教校入学以来 、梯先生には本当に長年にわたって多くのお育てを頂きました 。先生との思い出は語り尽くすことができません 。お別れするのは悲しく辛いことですが 、これまでのお育てに心から御礼を申したいと思います 。
 ところで 、梯先生は晩年にこんなことをよくおっしゃっていました 。
『私もいつか死ぬ時が来るから 、今のうちにお願いしておきます 。「あいつ死におったか 」ぐらいは言うてもいいけど 、「かわいそうに 」だけは言わんといてください 。お浄土に生まれさせていただいて 、仏さんにならしてもらうんやから 。それと、生きている間に言うたら嘘になるけど、今度、お浄土に参らせてもろうたら、その時は堂々と言わせてもらいます 。「あなたの苦労は私が背負うから 、あなたは精一杯生きてくださいね 」と 。』
と言いながら 、生きている間におっしゃったのですが・・・。
 いつも穏やかな笑みをたたえて私たちに接してくださる先生でしたが 、ずっとお世話をさせていただく中 、一度だけ 、本当にお辛そうで 、声をかけるのもはばかられるような時がありました 。心配そうに様子をうかがっていると 、声を絞り出すようにして 「娑婆やね 」と 、一言だけおっしゃったのです 。娑婆を生きる者にとって苦悩は避けられません 。しかし 、仏さまの智慧と慈悲に導かれる者には 、その苦悩を乗り越える道が開かれる 。梯先生は 、まさにそのことを自らの生き方の中に示してくださった煩悩具足の聖者でありました 。
【親によばれて 煩悩具足の聖者(103号)藤澤信照 響流書房より】



 私が死んで「(本当の意味で)かわいそうに」と言われるか否か、の分岐点は「このいま」にあります。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる機会は「このいま」であることを肝に銘じたいものです。
 声を絞り出すようにして
「娑婆やね」と言われた梯和上の言葉が印象的です。
おかげさまで 春分の日も 南無阿弥陀仏