手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分視点はあてにならない

 私は、〈真宗〉を宗派の意味ではなく、人間にとって〈ほんとう〉のことであり、その〈ほんとう〉に触れるならば、誰しもに感動が起こり、そのことで苦悩から救われていく普遍的な原理として使っています。ですから、私の所属する「真宗大谷派」は、〈真宗〉とはイコールではありません。「大谷派」は〈真宗〉に包摂される関係にあります。
 もっといえば、世界にあるすべての宗派や宗教団体は、〈真宗〉の中の出来事という理解です。つまり、言葉で表せば「真宗内的大谷派」「真宗内的禅宗」「真宗内的法華経」「真宗内的仏教」さらに「真宗内的キリスト教」「真宗内的イスラム教」「真宗内的オウム真理教」となります。
 そのことに気づくまで、私は〈真宗〉と他の宗教を並列関係に考えていました。そうであるかぎり、イスラムのテロ事件もオウム真理教事件も自分にはさほど切実な問題になりません。他の宗教教団や新興宗教集団の問題で、自分たちとは無関係でいられます。しかし、それは違うのではないかと気づいたのです。むしろこの世界で起こっているすべての問題は、実は〈真宗〉内的問題だったのです。
【新しい親鸞(上) 武田定光 響流書房より】



ここにある〈真宗〉〈ほんとう〉を、「南無阿弥陀仏のおはたらき」と置き換えるとよりスッキリします。著者の真意とは違うかもしれませんが、私はそう理解しました。
南無阿弥陀仏のはたらきは、このいま・どこでも・だれにでも、はたらいています。
あのひとは、この宗教を信じているとか信じていないとか、そんな了見が狭いものではありません。広い視点で、捉えていくことが大切だと思います。
いうならば、阿弥陀さま視点で物事を捉えていくことが非常に大切ではないでしょうか。
今日も 生かされて 南無阿弥陀仏