手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまの呼びかけに応える(頷く)か否か

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 


安田(回答)
計らいを捨てて仏のような心になろうというのが計らいです。どうしてもすたらないのです。そういう懺悔がある。我執が造ったものが妄想です。考えたものは皆妄想です。妄想の夢から目覚めること、目覚めた世界は本願です。目覚ます力も本願、ただ目覚めたいと思って目覚めるのではない。目覚ます力が本願、目覚めたら信心、本願に目覚めるのも本願の力、その目覚ますはたらきが南無阿弥陀仏。だから転ずるといっても夢の中でまた夢に転ずるのではない。そういう具合に続けてきた夢から覚める。人間も転ずることはあるけれども、それは夢からまた夢に転じている、それが流転です。南無阿弥陀仏がなければ間違ったといっても、正しいといっても夢から夢に転じている。転は転であるが流転です。だから目覚めてみればはじめから仏さまと一体。本願からいえばわれわれははじめから南無阿弥陀仏の中にある。南無阿弥陀仏といえばたのめと曠劫以来叫び続けている。それがわからなかった。だからたのんで助かってみれば、今聞こえた。今聞こえてみればそういうふうに叫び続けていた、その本願の中にありながら拒み続けていた。向こうは叫び続け、こちらは拒み続けていた。
【信仰についての対話Ⅱ 安田理深 大法輪閣 P122、P123 より】



南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否かは、紙一重です。
なぜならば、わたしは、すでに南無阿弥陀仏のはたらきの中にいるからです。
阿弥陀さまに、ただただおまかせです。
おかげさまで 今日も なもあみだぶつ



目覚め(イメージ)