手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信仰のエリート主義

 「私は本物の信心をえたから心配ない」と、こういう人がいたとすると、そういう存在は、あなたたちはまだまだというメッセージを発することになる。自分自身の救いに自信満々の人がいると、そのまわりの人は、みなその人にあこがれる。自分はまだまだあの人には及ばないと、自信が持てなくなる。そして、なんとかその人に「それでいい。よかったね。」といってもらえるようになりたいとあせる。自他ともに認める立派な聞法者のそばにいるとなかなか自信が持てない。その人の存在が、私はまだだめだという思いを抱く反面の鏡になってしまうのです。そこで、いわば信心というものを基準として階層化が生じてしまうわけです。こういうことが浄土真宗の教えが願いとする姿といえるでしょうか。
 そうじゃないでしょう。むしろ「こんな自分ではだめだ」と思い悩み自信を持てない人に対して、「心配しなくてもいい、あなたのような人のためにこそ摂め取って捨てないという約束があるのです」と、こういってくださるのが阿弥陀さんの精神ではないのですか。
 これまで「信心」ということでしばしば語られてきたことを考えてみますと、いつのまにか信心をえた特別の人、特定の人しか救わないというような意味になってしまっているのではないか。信仰のエリート主義とでもいうべき事態が生まれている。それではいわゆる聖道仏教というのと何も変わらない。浄土真宗はそういう道と訣別したところから生まれてきたはずなのに、いつのまにか元に戻ってしまっている。
 「私みたいなものはだめだ」と嘆いている、そういうあなたが救われなければ阿弥陀さんの仕事なんかはいらないのです。「私は大丈夫」と自信満々の人なんかは、阿弥陀さんはほっとくか後回しです。だいたいそういう人はもう阿弥陀さんの助けを借りる必要もないんじゃないですか。自信があるのですから。むしろ阿弥陀さんを必要とするのは、そういう自信が持てない人です。そういう人にまっさきに手を差し伸べる、それこそが阿弥陀さんの仕事です。そうでなかったら、阿弥陀さんとはいえないのではないのですか。
【凡夫、ゆきやすき道  藤場俊基(ふじばとしき) 響流書房 より】



向くべきは、
阿弥陀さま』であって、「私は本物の信心をえたから心配ないと豪語する人」ではありません。あくまでも、相手は阿弥陀さまです。
阿弥陀さん〜」と気軽にいえる間柄、関係にならせて頂くこと以上の幸せはありません。
大雪の中、今日も生かされて なもあみだぶつ



                  階層化(イメージ)