手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

すべてが如来の回向である

 本願という言葉でいわれている大きなはたらき。その本願が名号を生み出し、浄土を生み出し、人間に信心を与えるという。そういう大きな作用である本願のはたらきは、外から飛んで来て入るというのではなくて、法蔵精神として兆載永劫(ちょうさいようごう)に修行していると神話的に語られるように、いつでも生・老・病・死と共に、比喩的にいえば、見えざるかたちでわれわれにはたらいているといえます。われわれは生まれて死ぬという全体をとおして、法蔵菩薩の精神のなかにある。その法蔵菩薩の精神が有限な人間の自覚にまで上るとき、つまり、小さな泡ぶくが水のなかでふくらんで、水の上にぽっこり出るように、人間の妄念のなかに法蔵精神が自覚されてくる。その質は妄念の質ではなくて、本願自身の質、それは、先ほどの言葉でいえば、静的、スタティックな一如というよりも、苦悩の衆生を救わんとするはたらきとしてわれわれにはたらいてくるような一如のはたらきを、法蔵菩薩という菩薩の物語で語るのです。
 そのように親鸞は理解したわけです。そういう法蔵精神のはたらきがわれわれのなかに立ち上ったというふうに了解した。これは確かに人間のなかに起こる精神的な営みなのである。南無阿弥陀仏を信じ、南無阿弥陀仏を行ずるということは、人間の上に出てくる意欲であり、行為ではあっても、その質自身に如来の本願が来ている。如来の本願がそこに立ち上ったということです。こういう見極めをして、だから、一人ひとりの人間に生ずる意欲、南無阿弥陀仏を称えんと思い立つ心、それは一人ひとりに起こるのだけれど、その起こさしめる本質が如来の回向であると押さえたときに、この一心というものが、単に自分のなかに起こった一時の精神作用というよりも、兆載永劫にはたらいているような質、時間を超えて、空間を超えて、はたらき続けようとするような無限大の大いなるはたらきが、ここにいま来ているのだという、そういう直感です。そういう感覚です。そういうものは、例えば、一本の矢が身体に飛び込んだというようなはたらきよりも、もっと大きく人間を包んで、人間にはたらいて人間を支えて歩ませるのです。
【親鸞思想の原点 本多弘之 法蔵館 P109、P110より】



なにもかもが阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに依るものです。
『阿弥陀さまが、阿弥陀さまが、』であって、「自分(わたし)が、自分(わたし)が、」ではありません。主語は、絶えず、阿弥陀さまです。
先人は、「阿弥陀さまの一方通行の仰せ」と教えて下さいます。
わたしが・このいま・ここで、
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、非常に大事なところです。
今日も 生かされて 南無阿弥陀仏