手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまの呼びかけに応える

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 


兵頭(質問) 
呼びかけということは、常に南無阿弥陀仏に遇っているということですか。


安田(回答)
分別があるから、遇っていながら、遇ったという自覚がない。しかしわれわれが逃げている間中、呼びかけている。呼びかけているのは南無阿弥陀仏であるが、呼びかけの言葉によって、呼びかけに帰されたのが信心。信心というところに、はじめて呼びかけの心に帰する。帰ってみれば、呼びかけられたことがわかる。


兵頭(質問)
はじめから呼びかけていることには、気がつきませんでした。


安田(回答)
気がつかないのは、本願の中で本願に背いていたからです。気がつかなかったというのは無邪気なものであるが、聞いても、それを分別して聞くからです。


兵頭(質問)
悪いのは、分別しているからですか。


安田(回答)
聴聞しても、分別で受け取るのは分別が邪魔をするからです。
【信仰についての対話Ⅱ 安田理深 大法輪閣 P24より】


分別(ふんべつ)
1 道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。「―のないことを言う」「よく―して態度を決める」
2 仏語。もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。
【goo辞書より】



南無阿弥陀仏」と称えなさい、と阿弥陀さまが呼びかけられていますので
わたしは、「南無阿弥陀仏」と応える(称える)だけです。
そこに、阿弥陀さまとわたしの間で会話が成立します。
お互いの心が通じ合っている、といってもよいでしょう。
そのお念仏(南無阿弥陀仏)は、報恩感謝のお念仏(ありがとう)であることはいうまでもありません。
今日も 生かされて 南無阿弥陀仏