われわれは、なかなか仏さまの本願が信じられない。けれども、しかし、仏さまがわれわれを信じたまう力、それが具現化して本願というものになり、念仏というものになり、そうしてわれわれを呼んでいたもう。
そういう仏の念力によって、われわれは必ず、初めて如来を知り、また自己を知る。また、仏を信じ、自己を信ずることができる。それは、もともと、仏さまがわれわれを信ずるということ、つまり本願によるのである。
【曽我量深 講話録1 大法輪閣 P163,P164より】
念力(ねんりき)
憶念する力。
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
と示され、「国宝本」左訓には「おもふ力、余の浄土にはかならずとなり」とある
【浄土真宗事典より】
願行具足の南無阿弥陀仏ともいわれますように、
「南無阿弥陀仏」の六字の名号には、阿弥陀さまの多大なる願いと行がこめられています。
そして、このいまも、われわれひとりひとりにはたらき続けています。
その南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせていただくこと以上の幸せはありません。
今日も おかげさまで なもあみだぶつ