手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

あるとき立ち寄られた上人が、蔵のなかで糸を紡(つむ)いでいた「およつ」に、「お念仏が喜べるか」と尋ねられると、彼女は「こうして糸を紡ぎ紡ぎ念仏をもうしております」と答えました。
すると上人は「それならば、いっそのこと、念仏を申し申し糸紡ぎをしなさい」と仰せられた。それを聞いたとき彼女は、今までは、糸紡ぎを主として念仏していたことの浅ましさに気づき、念仏を主とした生活を送るようになったといわれている。


同じように糸を紡ぐという世俗の生活を送っていても、糸くりを主とし、念仏を従とするならば、念仏は世俗の生活の手段になってしまう。生活の手段となった念仏は、もう世俗を救う力をもたない。
それを上人は、「世間を主(あるじ)にして、仏法を客人(まろうど)としている」と批判されたのである。
それにひきかえ、念仏をもうすなかで糸を紡ぐという世俗の生活を営んでいくということは、仏法を主とした世俗生活を営むことを意味していた。
それを上人は「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といわれたのであった。仏法を主人公にして、世間を客人として生きていくということは、いつも如来に呼び覚まされ、如来のみそなわす人生を生きることであった。
それは、念仏のなかで、我が身をつねに慚愧しながら、わずかずつでも煩悩をつつしもうとする生活になっていく。


親鸞聖人が開かれ、蓮如上人が伝えようとされた浄土真宗は、在家仏教であるといわれるが、それは世俗の生活を仏法によって導かれ、世俗を仏法化しようとするものであって、決して仏法を世俗化することではなかったのである。
※およつ=大和の了妙
蓮如−その生涯の軌跡− 梯 實圓 百華苑 P213,234より】