手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

たまわりたる信心

ときに、「たまわりたる信心」という表現は、「信心」は何かの物体(モノ)ではないのか。その物体(モノ)を阿弥陀さまから賜るのではないか、と誤解を招く懸念があります。
もし、信心がそのような物体(モノ)であるならば、私の方から信心をつかみにかかったり、にぎろうとしてしまいます。
また、信心がなにかの物体(モノ)であるのであれば、いつかは崩れますし、守るために絶えず気を張らなければなりません。大変、疲れます。そういう点で、「たまわりたる信心」について語るときは十分に留意する必要があろうかと思います。


「聞こえたままが信心」といわれますように、阿弥陀さまからたまわりたる信心は、色も形もありません。別の言葉でいえば「阿弥陀さまのおはたらきを気付かせて頂く」という表現がしっくりします。
その阿弥陀さまのおはたらきを気付かせて頂く、そして、それが、ずうっ〜と相続される。
たとえ、私が世間ごとに没頭して南無阿弥陀仏を忘れていようとも、阿弥陀さまはこの私のことを一刹那も忘れることなくはたらきかけてくだされている。まことに有難いことであります。そこには大安心があります。


阿弥陀さまのおはたらきを確信した」とか「阿弥陀さまのおはたらきをハッキリ自覚した」という人がいましたら、その人の信心は思い込みの範疇ではないでしょうか。
本当に、阿弥陀さまから信心をたまわったのであれば、確信する必要もなければ、ハッキリ自覚する必要もないからです。


例えば、今、炎天下の真っ只中にいる人が、「ほんとうに暑いね〜」と言うことはあっても「今日の天気は晴れですね!」と敢えていうことはありません。
もし、そのように言う方がおられればちょっと感覚がズレた人だと思います。すでに炎天下の中にいるのですから。
もちろん、阿弥陀さまと私のことですから、他人の信心を「あ〜だ! こーだ!」と判断することはできませんが。


「たまわりたる信心」は、あくまでも阿弥陀さまから賜る信心ということです。もし、善知識からもらう信心、あるいは教祖さまからもらう信心というものがあるとすれば、そんな信心はニセモノです。到底、真実信心といわれるものではありません。


阿弥陀さまは、この今も「早く救われてくださいよ!」と、はたらきかけてくださっておられます。その一方通行の仰せに「ありがとうございます!」と聞かせて頂いていることは本当に有難いことです。煩悩具足のまま、そのまま、あるがまま、のお救い。


この私をなんとか浄土に生まれさせてやりたい!という一心で、気が遠くなるほどのご思惟とご修行。想像を超越しています。
ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂くだけです。なむあみだぶつ。