手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏のおはたらき

この人生は生まれて死んだらそれでおしまいだと、そんなことを思っている人はどこか頭が硬直しているんでありましょう。
いくら若いといっても頭が老化しているのです。ところが、仏法を聞いている人は頭が軟らかいと思います。それは、仏様が軟らかくしてくださるからでありましょう。
凡夫の話をどれだけ聞いたところでお浄土へは行けません。如来様がお浄土につれてゆくと言ってくださっている声が聞こえたらお浄土へ行けるのです。
往生浄土の話は、私が思いついた意見を申し上げているんじゃないのです。そんなことを私が思いつくはずがありません。
私のような疑い深い、はからい多い人間が、いつの間にか如来様の言葉に呼びさまされて、そして私の中に如来を信じる心を起こしてくださった、としか言いようがないのです。
これはまったくお慈悲のたまものです。すると人生あんまりこせこせしなくなります。
とくに早く死にたいとは思いませんけれども、死んだってお浄土があるから安心ですね。
【悪人成仏『歎異抄第三条』百華苑 大峯 顕P77,P78より】


【手品師コメント】
この短い文章の中に、多くのエッセンスがちりばめられていると思います。


如来様がお浄土につれてゆくと言ってくださっている』とありますように、
浄土につれていくと言ってくださるのは、阿弥陀さまです。
あくまでも、主語は阿弥陀さまです。
ですので、阿弥陀さまに向かわせて頂かねばなりません。
向かうは、善知識ではありません。ましてや教祖さまは言うまでもありません。


『往生浄土の話は、私が思いついた意見を申し上げているんじゃないのです。そんなことを私が思いつくはずがありません。』とありますように、
阿弥陀さまのお救いは、凡夫の計らいをはるかに超えたものです。
ですので、私が「あ〜だ!こ〜だ!」と頭をいくらコネクリ回してもなんの解決にもなりません。
阿弥陀さまに、ただおまかせさせて頂くだけです。


阿弥陀さまのお救いは、なにか稲妻が走ったり、素足で画鋲の針を踏んづけてしまって痛い!というような、救われた瞬間がハッキリ自覚できるものではありません。
煩悩具足の凡夫にそのような力があるはずがありません。
もし、救われた瞬間が上記のようにハッキリ分かった!という人がいるならば、それは勘違い(思い込み)か超人でしょう(笑)
『いつの間にか』とありますように、
「気付いたら阿弥陀さまのおはたらきの中だった」という表現がしっくりします。


境界線 
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20100612#1276292185


『私の中に如来を信じる心を起こしてくださった』とありますように、
「このいまも阿弥陀さまに向かわせて頂いていること」もすべて阿弥陀さまのお計らいであるということです。
なにからなにまで、すべて阿弥陀さまのおはたらきです。誠に有難いことです。


『とくに早く死にたいとは思いませんけれども、死んだってお浄土があるから安心です』とありますように、
阿弥陀さまより、信心を賜りますと大安心です。
「生きてよし 死んでよし」なのです。