手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

コミュニケーション 「人と人(私)」と「阿弥陀さまと私」の違い

 

   言葉を、コミュニケーションを取るための道具と考えるならば、言葉を発する側と、受け取る側がいることが前提となる。「伝わった」という状況は、この両者、つまり、話す側と聞く側や、書く側と読む側の共同作業によってもたされるのだ。

 とはいえ、聞く側や読む側といった受け取る相手の感じ方を変えることは難しい。

 親しい友人や同僚、家族間であれば、ツーカーの仲を築くことで、相手からの理解の歩み寄りを期待することができるかもしれない。

 しかしながら、通常の生活において、コミュニケーションを取るべき相手との関係性は多岐にわたっている。お互いに何の前提も共有できていない、初対面の人と意思疎通を図らなければならないことも多い。

 その意味では、伝わる精度を高めるために変えることができるのは、伝えようとする張本人である自分以外いないことは明らかであろう。

 「伝わった」「伝わっていない」という伝わり方のレベルを細分化して考えると、次のような段階に整理することができる。

 

① 不理解・誤解

そもそも話が伝わっていない、もしくは、内容が誤って伝わっている状態。伝えた側と伝えられた側に、認識のズレが生じている。実生活においては「言った、聞いてない」「聞いた、言っていない」といった問題として表面化することが多い。

 ② 理解

伝えた内容が、過不足なく伝わっている状態。相手が話したことをヌケモレなく正しく把握している。しかし、理解以上の解釈が行われているわけではなく、「頭では分かっているが、心がついていかない」といった状況にも陥りやすい。

 ③ 納得

相手が話したことを、頭で理解しただけでなく、内容が腹に落ちている状態。そのため、理解に比べ、自分ゴトとして捉えることができている。話を聞いている時に「なるほど」「確かに」といった感情を伴うことが多い。

 ④ 共感・共鳴

見聞きした内容を理解した上で、心が動かされ、自らの解釈が加わっている状態。相手の意見や感情などに「その通りだ」と感じ、自分なりの考えを加えたり、自分にもできることがないかと協力を申し出るといった行動を起こしたくなる。

 

 このように見てみると、理解まで至れば合格点ではあるものの、納得と共感・共鳴こそが、コミュニケーションの醍醐味であることが分かる。しかしながら、そのレベルにまでコミュニケーションを高めることがいかに難しいかは、あえて言うまでもないだろう。

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【言葉にできるは武器になる 梅田悟司 日本経済新聞出版社 P17~P20より】

 

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 今回紹介しました上記のコミュニケーションは、「人と人(私)」のコミュニケーションについて、わかりやすく説明されています。「①不理解・誤解 ②理解 ③納得 ④共感・共鳴」と段階的に提示しています。この場合(人と人の場合)、「納得と共感・共鳴」こそが、コミュニケーションの醍醐味である、とまとめています。私も同感です。

 では、「阿弥陀さまと私」のコミュニケーションは、いかがでしょうか。先の「①不理解・誤解 ②理解 ③納得 ④共感・共鳴」の ③納得 ④共感・共鳴はいかがでしょうか? 「人と人(私)」同様、コミュニケーションの醍醐味となるでしょうか? 残念ながら、いずれもコミュニケーションは成立しません。それは、いずれも「私の主観」が入っているからです。

 『阿弥陀さまと私』のコミュニケーションを語る上で、まずは、「(阿弥陀さまの)一方通行の仰せに(私は)ハイ!と応える」ことが大事である、と先人は教えてくれました。換言しますと、「阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに私が気付く」ことが先決である、ということです。その後の念仏(南無阿弥陀仏)は「報恩感謝の念仏」となり、(本当の意味で)阿弥陀さまとコミュニケーションがとれる身になるのでした。平たく言いますと、『念仏(南無阿弥陀仏)』を通して、阿弥陀さまと私は(言葉の)キャッチボールができる間柄になる、ということです。

 梯 實圓 師は、『念仏(南無阿弥陀仏)』について以下のようにも述べています。

『救われた人の念仏には、苦悩に沈む人間を救うて、生き生きとよみがえらせていく、如来の大悲の力が躍動しているからです。その仏徳が、有縁の人々をよび覚まし、教化していかれるのです。このように、本当に救われた人の念仏は、その人の思いを超えて、自身も仏徳によび覚まされ、有縁の人々に仏徳の尊さ、有り難さを思い知らせていきます。いわば阿弥陀如来は、信心の行者を拠点として、その仏恩報謝の念仏の声となって、大悲の救済活動を煩悩業苦(ぼんのうごっく)に示現されていくのだともいえましょう。』

【光をかかげて -蓮如上人とその教え- 梯 實圓 本願寺より】

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 ※下記リンク「念仏の躍動(梯 實圓 師 )」もどうぞ~

 

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