キリスト教徒は、私たちがまるで神から疎外されていたかのように、神との和解ということを語ります。
真宗の信者なら「どんなに阿弥陀さんから逃げようとしても、阿弥陀さんはいつも付いてきていて、決して離れることはできません。逃げようとすればするほど、追いかけてきます」というでしょう。
阿弥陀は常に私たちと共に、私たちの内に、私たちの周りにいます。というよりは、私たちがいつも阿弥陀の中にいるのです。ですから、阿弥陀から逃げたり、阿弥陀に抵抗したり、阿弥陀に対立したりすることはまったくできません。
わたしゃ仁げます(逃げます) あなたのまゑ(前)を
仁げば仁げ(逃げるなら逃げよ) なむあみだぶつ仁ゑれて(入れて)
あるなむあみだぶ仁(南無阿弥陀に)つれられて
みだ(弥陀)の上をど仁(浄土に)・仁げてゆく(逃げていく)
仏教徒には阿弥陀との「和解」はない。彼等はただ、阿弥陀の中にいるのだから阿弥陀から離れることはできないという事実に気付くだけです。
才市にはこの離れがたさが極めて明白です。
【真宗とは何か 鈴木大拙 法蔵館 佐藤平顕明(訳)P174、P175(才市と和解)より】
「南無阿弥陀仏のはたらき」につつまれて生活している以上、(まずは)そのはたらきに気付かせていただくことが賢明です。その気付きによって、きっといままで知らなかった世界が開けることでしょう。安心という世界が。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏