手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏をとなえましょう

私は、最近は信心ということをあまり気にしなくてもいいから、とにかく口先だけでもいいからまず念仏を称えましょうと、あらゆる機会に言っています。信心を気にしなくてもいいというのは、要らないという意味ではないですよ。とりたてて気にする必要はないという意味です。信心という、内面的な問題がはっきりするまで念仏をしないのであるならば、いつにまでたっても念仏なんかできません。信心がはっきりするまで待っていたら、死んでしまうかもしれません。ですから、信心が気になるのなら、まず念仏をしながら考えなさいというのが、私の基本的な理解ですし、実際に私のとっている態度です。私は、今は意識的にあえてそういうことを強調しています。ですから、念仏しましょう、真似でも練習するつもりでいいから言うようにしています。
で、口に出して念仏するようになると、そのことは表現されたこととしてかならず意味を持ってきます。意味というのは、表現者がどういうつもりでその表現をしているかということによって決まるのではなく、それを受けとめた側に生ずるものだからです。念仏はどんな念仏であってとしても、それを聞いた人には必ず、何らかの意味や効果をもたらすのです。この一点だけでも私は、念仏を勧める意味は十分にあると思います。ところが、それがなかなか素直にはできないのです。なぜか。それは念仏するということに、何かもっともらしい意味がなければしたくないと思うからです。ナムアミダブツと口に出すだけの、ささいな行為にもさえもっともらしい理由を求めてしまう。それに対して、私は、念仏申すことには、そんなに勿体をつけることはない、もっと気軽に軽やかに念仏しましょうと、言いたいわけです。
【『教行信証』の現代的意義 −不確かさに生きる一歩− 藤場 俊基 響流書房[Kindle版]より】



自分の力や意志でとなえていると思っているお念仏(南無阿弥陀仏)も
やがて、頷き(うなず〔づ〕き)のお念仏、つまり、報恩感謝(ありがとうございます!)のお念仏になります。
それは、このいまも、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきのお育てに与っているからです。称えずにはおれないお念仏になります。それは時間の問題ですが、いまに越したことはありません。
南無阿弥陀仏」とお念仏が溢(こぼ)れ出るようになれば、しめたものです〜
つまり、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂いたということです。別な表現で言えば、阿弥陀さまから信心を賜ったということです。
さあ、口に出して、お念仏をとなえましょう〜
今日もなまんだぶ なまんだぶ
  


    miko415さん nageta & kosizuさん ありがとうございました!




頷く(うなずく) 〜「南無阿弥陀仏」視点から〜
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20150308


いさみの念仏
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20120812