西田は 、 「実在 」とは 「現実そのままのものでなければならない 」といいました 。これは 「ありのまま 」といい換えてもよいかもしれません 。 「実在 」を感じるには 、世界をありのままに感じなければならない 、と西田は繰り返し語っています 。
しかし 、この 「ありのままの世界 」を感じることが簡単ではありません 。私たちがそれをさまざまなもので覆い 、見えなくしてしまっているのです 。 「ありのまま 」を覆うものが剝がれ落ちたとき 、 「実在 」がその姿を顕わします 。西田がある時期 、禅に打ち込んだことは先に見ました 。禅とは 、結局 、この 「ありのままの世界 」を全身で認識することにほかなりません 。
気がつかないうちに 「実在 」を覆ってしまっているもの 、それが私たちの価値観や世界観です 。
たとえば 、現代人にとっては 、実証可能な科学的世界観が常識になっています 。しかし 、人生の大きな試練に直面するとき 、この科学的世界観とは異なる世界を感じることがあります 。
科学は 、再現可能であることを真実であるとみなします 。しかし 、人生は二度と繰り返すことのないもので満ちています 。今日という日は 、二度とないことを私たちはよく知っているのです 。
このことについて、別の側面から考えてみます。世の中には無数の「色」があります。
私たちはそれを多くの場合、それぞれの母語を通じて理解します。
しかし、日本語の「あか」と英語の“red”は同じではありません。「あお」と“blue”は同じではありません。日本語には「赤」「朱」「赫」というようにさまざまな「あか」があり、「青」「蒼」「碧」のように複数の「あお」があります。
「あお」を実在的に経験するとは、さまざまな「あお」を感じ分けるということではありません。それは科学的な情報に基づく「解析」です。
たとえば「あお」という多面体があるとします。西田のいう「実在」の経験とは、この多面体の一つひとつの面に「ついて」知ることではありません。多面体そのもの「を」認識することです。「あお」そのものにふれ、「あお」を色たらしめている「色そのもの」のはたらき、根源のはたらきを感じることです。
この「色そのもの」が、西田のいう「実在」です。「あか」「あお」「きいろ」「くろ」「しろ」はどれも「色」です。しかし、私たちがこれらの色を科学的に「解析」するとき、それぞれの色の特性について知ることはできますが、私たちが「色そのもの」を知ることはできません。
【NHK 100分 de 名著 西田幾太郎 「善の研究」2019年10月テキストより】
後半部分(青字部分)は、「南無阿弥陀のはたらき」を意識しているようにしか思えません。南無阿弥陀仏には、はたらきがあります。深いです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏