手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏(南無阿弥陀仏)

 

金の塊をね、子供にやるんです。あんまり喜ばんね。そこで、金の塊を獅子のおもちゃにするんです。おもちゃじゃったら、二つや三つの子供にも通じましょう。ところが、獅子のおもちゃに加工しても金ですからね。ですから、子供は獅子のおもちゃを受け取るままが、金を受け取っておることになりますね。ですからね、御念仏は、真如法性の金のままが、私の世界にちゃんと今はたらいとるという事なんです。そうするとこれは、法がはたらくんですから、信も私がする信じゃないんですよ。私のものは、一切これはね、この手あかがつけられん事になっとる。それが浄土真宗ということですね。

【如来をきく  稲城選恵  深川倫雄  響流書房より】

 

真如(しんにょ)

梵語タタター(tathatā)の漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別(こもうふんべつ)を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。

※WikiArcより

 

 法性(ほっしょう)

梵語ダルマター(dharmatā)の漢訳。法の法たる性という意。人間の虚妄分別を超えた存在(法)の真実なるありよう。すべての存在の真実常住なる本性。またすべての存在の本性があらゆる差別の相を超えていることをいう。 真如・実相・法界などの異名として用いられる。「証巻」には、実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。 (証巻 P.307)とある。

※浄土真宗辞典より

 

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 ここでの表現、いただきます(笑)。金で作成した獅子は、獅子の形をした金です。金そのものに変わりはありません。表現方法、とても勉強になりました。

 南無阿弥陀仏は、いま・ここで・私に、はたらいています。「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉には、「阿弥陀さまの命」が込められています。私にも分かるように「南無阿弥陀仏」という言葉に「阿弥陀さまの命」を込められたのでした。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるということは、「阿弥陀さまの命」を授かるといってよいでしょう。一心同体南無阿弥陀仏なのです。私は、南無阿弥陀仏と報恩感謝のお念仏を称えるだけなのでした。

 

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