手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

『歎異抄』の言葉の重み

   おそらく『歎異抄』が今日までこれだけよく読まれているのには、もちろん親鸞聖人のお言葉の尊さがあります。しかしその尊いお言葉を、唯円房自身が非常に深く確認し、確認した真理を、〃俺の言っていることこそ正しいのだ〃という押しつけでなくて、〃どうぞ聖人のこのみ教えに気づいてくれよ〃と、異なるものを嘆きながら書いていく想いが『歎異抄』全体にみなぎっているわけです。それが私たちの心を打つのです。同じことを言っても、それを言う人の姿勢というものによって、ずいぶん響きが変わってくるのです。

 『歎異抄』を読んでいて思うのは、親鸞聖人のご法話なのですけれども、このご法話を唯円房はしっかりと自分で確認しているのです。自分がきちんと味わったことだけを書いています。親鸞聖人の言葉だからといって、全部を書いているわけではないのです。自分が本当に味わえたことだけを書いています。

 私たちが『歎異抄』を読んで、「親鸞聖人は『教行信証文類』ではこういう言葉を使っていらっしゃるのだから、ここはこういう言葉を使ったほうがいいのではないか」と思うところもいくらかあります。けれども、唯円房は自分が本当に納得した言葉でなければ収録していないようです。親鸞聖人が味わい、唯円房がもう一度確認したことを書いているのです。ただの受け売りではありません。もう一度自分の人生を通して確認した真実、それをここに記しているのです。

 その意味で、『歎異抄』というのは、前半の部分は親鸞聖人のお言葉ですけれども、しかしそれはお言葉をテープレコーダーのように反復したものではなくて、自分自身がはっきりとその真実を確認したお言葉だけをここに収録するという書き方になっています。

【『歎異抄』師訓篇を読む1「納得した言葉だけが収録」梯實圓和上講話集 自照社出版 P25~P27より】

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『歎異抄』の言葉に重みといいますか深みがあるのは、唯円房自身が自分の人生を通して確認した真実を記しているからである、といわれています。わたしも同感です。ただ単に、親鸞聖人がこのように言われたとオウム返しのように言っているのではありません。唯円房自身、実体験したといいますかより納得した上での言葉ですので、感動を与える文章となっているのでしょう。わたしも見習っていきます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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 「オウム返しで愛を語る」より引用

https://mamagirl.jp/0000035547