手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗とは

 

親鸞は言う

浄土真宗に帰(き)すれども

 真実の心(しん)はありがたし

 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて

 清浄(しょうじょう)の心もさらになし

(『正像末和讃』)

 親鸞の悲歎である。もし、真宗に出遇わなければ、「わが身こそ真実」と、傲慢(ごうまん)に生きていたであろう。そして、鼻持ちならぬ自分になっていたであろう。浄土真宗に帰したからこそ、逆に真実の心のない自分が見えてきたのである。「虚仮不実のわが身」、「清浄の心もさらにない」自分が、見えてきたのである。虚仮とは、うそいつわり、不実とは不真実で、絶対ではない、相対的なものであるとの意である。その自覚こそ、すでに、それに気づかせる「真実」に出遇っているのである。虚仮不実の自覚が、真実に気づかせる。闇の自覚が、光を仰がしめているのである。

 ところで、一般に「浄土真宗」と言うと、仏教の一つの宗派を言い表わすことばと理解されるが、ここで言う浄土真宗とは、そういう教団(宗教団体)を指すことばではない。親鸞が、『教行信証』で「謹んで浄土真宗を案ずるに・・・・・・」と言うように、法、つまり、教えそのものを指すことばである。法であるから、誰かが作ったとか、言い始めたとかいうものではない。私たちが気づこうが気づくまいが、普遍に存在するものである。たとえば、ニュートンの万有引力の法則は、ニュートンが作ったものではない。ニュートンが気づこうが気づくまいが、リンゴは木から落ちる。たまたまニュートンがそれを見ていて引力に気づいたのである。それと同じように、浄土真宗も法であり、親鸞が作ったのではない。親鸞が気づいたのである。それどころか七高層(釈尊から親鸞まで念仏の教えを伝えた七高層)のみんなが、真宗に気づいたのである。だから、「彼の三国の祖師、おのおの此の一宗を興行す」(『御伝鈔』)と言うのである。先立つ祖師たちは、法然も含めてみんな真宗の法に目覚めているのである。だから、法照(中国唐代の僧、生没年時不詳)は、「念仏成仏これ真宗」と言い、善導は「真宗値(もうあ)いがたし」と言う。さらに、親鸞は法然について、

智慧光(ちえこう)のちからより

 本師(ほんじ)源空あらわれて

 浄土真宗を開きつつ

 選択(せんじゃく)本願のべたもう

(『高僧和讃』)

と言うのである。親鸞の理解は、法然は法の世界からやってきて、法を伝えて、法の世界へ帰って行った人なのである。浄土真宗とは、苦悩する人間を、苦から救う法そのものを指すことばなのである。

【歎異抄  心に刺さるメッセージ  田代俊孝 法蔵館  P103~P105より】

 

法(真理)は普遍に存在しています。ですので、お釈迦さまは、その法(真理)を発見した、という表現で言及されます。その法(真理)、つまり、「南無阿弥陀仏のはたらき」に、いま・ここで・私が、気づくか否か、はとても大事なところです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏