手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

極論の効用

法然親鸞の時代では、人は源信がいう「妄想」のかたまりだ、ということを聞けば、「なるほど私は愚かで妄想のかたまりそのものだ」と頷いて、そうした凡夫に注がれている阿弥陀仏の本願の意味が身に染みるように理解できたのであろう。しかし、現代では人は皆、自らの智恵と賢さを誇りにして生きている。人よりは勝れているという自尊心が生き甲斐の根拠となっている。だから、自らすすんで「妄想」の身だと自覚したり、真理に暗い愚かな身だと認めることは、しばしば人生の敗北者になることを意味する。
 こんな時代に、あえて人は妄想のかたまりだという「極論」を主張することは、誤解を受けやすいだろう。しかし、それは、私たちの自我にどのような問題が内在しているのかを明らかにし、常識の限界に気づくためなのである。あるいは、自己の有限性に気づくための「極論」といってもよい。
 「信仰心」だけではなく、「極論」に導かれて、「非常の言葉」に向き合う。そこから法然親鸞の仏教がはじまるのである。「極論」がただちに求道心を喚起することができた中世と、「極論」によって、しぶしぶ、問題の所在に気づき、日常の価値観を相対化する現代の私たちの間には、やはり、深い溝が生じているといわねばならない。
 だが、その溝にかかわらず、中世人の求道の跡をたどることしか、現代の私たちの求道もないのである。「極論」に頷くことが現代の求道の始まりなのである。「信じる」のは、そのあとのこと。「信じる者は救われる」という言葉に惹かれて、無理に信じようとして、結局は信じることができない、という悩みに陥るのは仏教の教えではない。納得すべきことは、わが身が「妄想」のかたまりだということであり、それが納得できてはじめて阿弥陀仏誓願という「物語」に頷くことができる。人によってはずいぶん時間がかかるが。
【行動する仏教 法然親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】



時代背景の違いは、仏教を聞く環境においても大きく違ってきます。ここでは、現代と中世(法然聖人、親鸞聖人が活躍された時代)の違いについて述べられています。「現代では人は皆、自らの智恵と賢さを誇りにして生きている。人よりは勝れているという自尊心が生き甲斐の根拠となっている。」とありますように、現代人の(多くの)生き甲斐は、自尊心が大きな原動力となっている、と考察しています。そういった自分たのみの生き方は、阿弥陀さまの救いという視点からみますと、ハードルになっているように思います。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏