手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏

弥陀によって誓われた本願ということがあります。そしてその本願の対機として、無量の衆生が存在するのであります。この本願と衆生の関係を結ぶ唯一の糸は念仏であります。川を渡って向こう岸にゆこうとするには橋を渡らなければならぬ、その橋が念仏であります。こんな例を引きますと、あるいはその比喩に引っかかって困られるかもしれませんが、もっと端的にいえば、本願の趣旨がわかったのが念仏であり、念仏の意義がわかったのが本願に接したのであります。では何ゆえ、衆生が弥陀の本願に救われねばならぬか。今日でもなぜ宗教を聞くのか、宗教は我々の生活上にどういう意味を有するのかという人があります。毎度聞いている人でも、こういう人があるかもしれません。しかしこれは実に重要な問題であって、何がゆえに聞くのであるか。なにゆえ助からねばならぬのかということが、自分の心に明らかにならなければ、宗教を聞くことは、何らの根拠がないこととなります。
【歎異鈔講話 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)著 北樹出版 P25より】



阿弥陀仏の本願に(いま・ここで・私が)接していることに、気づくか否か、非常に大事なところです。「南無阿弥陀仏」の念仏は、いま、ここで、阿弥陀さまと私を繋いでいます。「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉となり音声となって、智慧のない私に、知らしめてくれます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏