手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀仏の本願と念仏の関係

親鸞聖人が本願と念仏の関係、念仏と私どもの関係を最も深く知らしめんとして、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と申されたのであります。このお言葉は一面、悩める衆生が助かるのはまったく他力である、自分のはからいでは助からないことを強く主張していられるのであります。摂取不捨とは仏の光の中に生まるることであり、どこまで行っても仏の光であり、光の中に自分を見いだすということであります。その光の中に自分を見いだしたということが、私どもの助かったということであります。「往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんと思い立つ心の起こるとき、念仏するという行によってではなく、念仏に対する信によって、如来の魂が私の胸に到達してくだされるのであって、そしてそれが摂取されたときなのであります。すなわち、誓願のご不思議によって助けられるのだと信じて、念仏申そうと思い立つとき、すでに如来と私は接触しているのであります。すなわち、念仏によって如来の心が私に通い、私の心は如来に通うのであります。もう一歩極言すれば、念仏の萌しが私の胸に起こりて、口に出るか出ないうちに、私はすでに助かっているのであります。そしてその念仏の信が自然に行となって相続されるのであります。これは、念仏するというそのことによって助かるのではないということを、知らしめんとしていらるるのであります。火のあるところには自然と煙が立つように、念仏の信は自然に念仏の行を生み出すのであります。かく仏心と凡夫の交通によって、実に私どもは死んでからではなく、現在ただいまから、救いの中に生まるることができるのであります。すなわちそこに明らかに光を見、光を感じつつ、この多難なる人生の行路を安らかに進みゆくことができるのであります。
【歎異鈔講話 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)北樹出版 P35より】



念仏(南無阿弥陀仏)は、阿弥陀さまと私を繋ぐ架け橋です。南無阿弥陀仏の6文字の言葉をもってして、智慧のない私に「念仏の世界」を知らしめてくれています。念仏生活の根底には大安心があります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏