手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「絶対他力」という概念

 第一に「絶対他力」という概念は、概ね、次のように説明されてきた。


他力の中の他力。救いのすべてがまったく阿弥陀仏の力とはからいにより、まったく人間の自力によるのではない、ということ。また、そのような絶対的な阿弥陀仏の力。親鸞の到達した他力信仰のあり方で、法然の他力をさらに進め、念仏すら自力でするのではなく、仏の慈悲がそのようにさせるのであると説き、他力信仰を徹底させた立場である。救いが人間側の努力によるものではなく、まったく阿弥陀仏の本願によるものだとする境地を表現している。
(『倫理用語集』125頁)


 第一に注目されるのは、冒頭の「他力の中の他力」といった説明である。日本において親鸞以前に阿弥陀仏の「他力」のはたらきに注目し、浄土の宗義を明らかにしたのは法然である。したがって、親鸞の思想のオリジナルティが、「他力の中の他力」といった言い回しで語られる場合には、師の法然の他力思想は、いまだ自力的な要素が完全に払拭されておらず、不徹底なものだといったことが含意されてしまうことになる。
 しかしながら、法然の説いた「他力」が、不徹底な「他力」と理解されなければならないのだとすれば、これはいささか奇妙な理解と言わざるを得ない。なぜなら、その場合には、浄土で言われる「他力」に、「相対の他力」と「絶対の他力」の二種類が区別されることになるからである。「他力」というのは、そもそも微塵も「自力」を容れない絶対の「他力」のことを意味したはずである。にもかかわらず、「他力の中の他力」を説いた親鸞の他力思想が、法然の説いた他力思想と区別されなければならないというのは、いったいどういうことなのか。
 「他力」というのは、中国の曇鸞大師の『浄土論註』に出てくる言葉である。したがって、「他力」という言葉は、法然も親鸞もたびたび使用している。一方、「絶対」という表現に関して言えば、親鸞の『愚禿鈔』や『教行信証』などの中に、「絶対不ニの教え」といったかたちでの用例を確認することができる。ところが、一般に、親鸞思想の真髄をあらわしているとされる「絶対他力」という表現は、親鸞の著作の中にも、「歎異鈔」の中にも、その用例が一件も確認できないのである。    【略】
 私は、真宗の思想を象徴的にあらわすものとして「絶対他力」という表現が用いられてきた背景には、法然を開祖とする浄土宗との差別化を図りたいとする、真宗の思惑がはたらいていたものと想像する。すなわち、「絶対他力」なる言葉を旗印に真宗の浄土思想のオリジナルティが語られるのは、近代の真宗があみ出した一つの生き残りの戦略であって、明治以降に創造された「俗説」にすぎないのではないかということである。
 近代以降、「絶対他力」なる言葉が真宗の思想を象徴する要語として定着していく過程で、『歎異鈔』で語られる親鸞像も、磐石な思想的基盤を獲得していくこととなる。いまだ自力的性格を残した法然の「他力」とは違い、親鸞の奉ずる「絶対他力」の信心にあっては、一切の自力的要素が排除されているといった理解には、『歎異鈔』の親鸞の思想と重なるものがある。しかしながら、そうした方向性で真宗の思想的特徴が理解されるとすれば、やはりそこにどうしてもいくつかの根本的疑問が積み残されることになる。それは、そもそも、これが親鸞本人の言葉ではないということ、さらには、元来、「絶対」でなければならないはずの「他力」に、わざわざ「絶対」という言葉の付加された造語が、なぜか親鸞思想の特徴を示す要語として、広く一般に浸透していくことになったのかということなのだが、こうした疑問に向き合うとき、にわかに浮かび上がってくるのが、清沢満之の門人たちの存在なのである。
【清沢満之と日本近現代思想 山本伸裕  明石書店 P253〜P256より】



ここでは、「絶対他力」という概念について述べられています。
このあと、「絶対他力」という言葉は、清沢満之の門人たちの存在があるとの説明が続きます。読み易い文章でスラスラ読めます。清沢満之に関心がある方にはオススメです。
西田幾多郎、西谷啓治、倉田百三、夏目漱石、正岡子規、曽我量深、暁烏敏、司馬遼太郎、三木清、等そうそうたる人物との繋がりがみえてきます。清沢満之の影響力は大きいですね。
今日も南無阿弥陀仏。