手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真実をおおいかくす 『疑いの心』

 折角、この私の救われる法がより先に与えられていても自ら拒絶すると通じないことになる。この拒絶に『倶舎論』には五蓋が出されている。いかなるものでも蓋をすると外からいれることは不可能である。この拒絶のはじめの二つは貪欲蓋と瞋恚蓋である。この二つの蓋は大半の多くの人に通ずる。即ち毎日忙しい忙しいと云って仏法など聞く暇がないという人々であろう。即ち無関心な人といえよう。
 現代人に最も多いとも考えられる無関心型のものは仏教では一闡提といわれる。更に関心があっても掉挙蓋や睡眠蓋はぼっと聞く人、居眠りする人のことをいう。最後の疑蓋は最も熱心に聞く人をいう。親鸞聖人の疑蓋無雑といわれる疑蓋が最も問題となるのである。
 疑蓋とは自力心のことである。この自力心を『大無量寿経』の胎化段では信罪福心といわれている。この信罪福心は宗祖もしばしば用いられているが、罪は因の上では悪であり、福は因の上では善であるから善悪に執ずる心といわれる。即ち理性分別によってとらえんとするのである。善悪正邪の分別心でとらえた世界を疑城胎宮といわれる。宗祖の疑という意味は我々の常識的に考えられているものとも異なる。というのは疑は多く猶予不定と解釈されているからである。夕方に彼方に道を歩くと棒が立っている。人であろうか、棒であろうかという不明瞭な場合に用いるのが一般にいわれる確信をも疑といわれるのである。キリスト教の『新約聖書』へブル書にある如く、目に見えないものに対して確信するということも疑となるのである。即ち自力の信心のことも疑いの領域に属するのである。しかし一般に常識的に考えられているものはこのような確信的なものを信心という。
【念仏の土壌  稲城選恵 著 永田文昌堂 P26,P27より】


【語句説明】
倶舎論(くしゃろん)
『阿毘達磨倶舎論』のこと。30巻。世親(天親)の著。唐の玄奘訳。説一切有部の説を中心に経量部の説を加えたもの。仏教の百科全書的な内容をそなえている。仏教教理の基礎的典籍として重視され、数多くの注釈書が作成された


五蓋(ごがい)
蓋は心をおおうものの意で、煩悩の異名。
心をおおう5種の煩悩。


一闡提(いっせんだい)
略して闡提ともいう。
世俗的な快楽を追求するのみで正法を信じず、さとりを求める心がなく成仏することができない衆生のこと。
浄土教では、これらの者も回心(えしん)すれば往生することができると説く。


回心(えしん)
1.悪心を改めて仏の教えに帰すること
2.自力の心を捨てて本願他力に帰すること。


本願(ほんがん)
仏が因位の菩薩であったときにおこした因本の願いという意。
この願いは、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる。また、衆生救済のための根本となる願の意で、阿弥陀仏の四十八願中、特に十八願を指していう。


他力(たりき)
自力に対する語。阿弥陀仏の本願のはたらきをいう。
疑(ぎ)
根本煩悩の一。
仏教の真理を疑うこと。親鸞は、阿弥陀仏の本願を自らはからう心とする。


信罪福心(しんざいふくしん)
罪とは苦果を招く悪業、福とは楽果を招く善業のことで、
善因楽果、悪因苦果の道理を信じることをいう。
親鸞は『正像末和讃』に
「罪福信ずる行者は  仏智の不思議をうたがひて 疑城胎城にとどまれば  三宝にはなれたてまつる」等と述べ、信罪福心にもとづいて本願力を願い求める心を自力心として誡めている。


疑城胎城(ぎじょうたいぐ)
方便化土の異名。
疑城とは阿弥陀仏の浄土のうち、本願を疑う第十九・二十願の自力の行者がとどまるところをいう。それを胎宮ともいうのは、浄土に生まれても蓮の花につつまれて、あたかも母の胎内にあるように500年の間、仏に遇わず、法を聞かず、聖衆(しょうじゅ)をみることができないからである


聖衆(しょうじゅ)
聖位の人々の意。仏・声聞・縁覚・菩薩などの聖位にある者をいう。
特に浄土真宗では、観世音・大勢至などの浄土の菩薩を指す場合が多い


疑蓋(ぎがい)
蓋はおおうの意で、真実をおおいかくす疑いの心のこと。
親鸞は、疑いが雑(まじ)らないことを「疑蓋無雑」といい、他力信心を表す語となる。
【以上、浄土真宗辞典より】


疑情(ぎじょう)
阿弥陀仏の本願を疑いはからう心。
とは猶予不定(ゆうよふじょう)をいう。
迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの描いた想念によってためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないことを疑という。
これは煩悩の異名である五蓋の中の疑蓋に相当する。五蓋は自らの心を曇らせ覚りへの道を妨げる煩悩の意であるが、浄土真宗の場合は自からの罪福を信じて、仏智を領受しないことを疑蓋という。
【 WikiArc より】 
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%96%91%E6%83%85



すでに届けられている「南無阿弥陀仏のおはたらき」を自分の視点や計らいでいくら計らっても何の進展もありません。
それは、「南無阿弥陀仏のおはたらき」は、そんなわたしの思いや考えを超越しているからです。わたしが計らいきれるものではありません。
「南無阿弥陀仏のはたらき」は目に見えません。
だからといって「目に見えないものに対して確信する」のでもありません。それは、自分中心の自分都合ワールドです。
浄土真宗の信心は、「一般に常識的に考えられている確信的な信心」ではありません。つまり、自分で拵えた信心ではありません。阿弥陀さまから賜る信心なのです。賜るといっても、なんかのモノではありません。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせていただくことを『浄土真宗の信心』といいます。
自分のはからいや都合はちょっと横に置いておきまして、阿弥陀さまと真向きにさせて頂きたいものです。聴いているうちに、必ず、南無阿弥陀仏と聞こえてきます。それは、阿弥陀さまをはじめ、お釈迦さま、仏さま方が保証されています。こんな頼もしいことがあるでしょうか!!!。 「仏語に虚妄なし」といわれますように、仏さまにウソという言葉は存在しません。すでに「南無阿弥陀仏のおはたらき」に包まれているのです。
蓮如上人は
「当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか」といわれています。
われわれは、まさしく、この今、その環境下(宝の山)で生活しているのです。
このいまが最大のチャンスです!チャンスを掴め!といいたいのですが、それも間違いです。もうすでにチャンスは届いていますから。
このいま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のおはたらきに気づかせて頂くか否かの問題です。
今日も南無阿弥陀仏。