手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

本願念仏を信じて念仏するかどうかだけ

われらが往生は、ゆめゆめわが身の善き・悪しきにはより候まじ(中略)。ただ仏の願力を信じ信ぜぬにぞより候べき。
(「正如房へつかわす御文」、『定本・法然上人全集』第七巻、九六頁。表記を変える)


要は、その本人が、本願念仏を信じて念仏するかどうかだけが、問われるのである。しかし、長年、救いに値するだけの努力を積みかさねてはじめて仏になることができる、と教えられてきた人々には、法然の教えは、とても理解できないものであった。
とりわけ、道徳上の徳分を積み、写経や布施、供養といった、それまでの仏教が善としてすすめていたことがらに馴染んできた人々は、混乱におちいることになる。


法然の革命性とは、くりかえしていえば、〈宗教の絶対的価値〉(本願念仏の絶対至上性)を主張したところにある。本願念仏は、倫理道徳、政治や経済といった、この世の価値の一切に左右されることがない。善人であろうが悪人であろうが、金持であろうが貧乏人であろうが、修行を積んだ人であろうが破戒の人であろうが、それらは、本願念仏による往生を容易にしたり、逆に妨げる原因には決してならないのだ。
法然の衝撃 阿満 利麿 ちくま学芸文庫 P80より 一部順序改編】



ここで、法然聖人がお示しくださっていますように
阿弥陀さまのお救いは
「このわたしが、本願念仏を信じて念仏するかどうかだけ」です。
つまり、
『このわたしが、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かさせていただき、報恩感謝のお念仏を称えさせて頂くかどうかだけ』ということですね。
南無阿弥陀仏は、このいまも、ひとりひとりに、分け隔てなく、はたらいています。
今日もなむあみだぶつ。