手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗の信心(誤解がないように)

 

  親鸞聖人は供養のために念仏したことはない、と仰っています。浄土真宗において「南無阿弥陀仏」の念仏は、私が称えるものでありますが、阿弥陀さまのはたらきが私を通して現れてくださったものだと受け止めます。

  阿弥陀さまのはたらきであるお念仏を、私たちの都合によって「供養」のための「手段」として用いることはできないのです。そのことを親鸞聖人は、(先ほどの言葉に続いて)次のように仰っています。

 

わがちからにてはげむ善(ぜん)にても候(そうら)はばこそ、念仏を回向(えこうして父母もたすけ候はめ。

(浄土真宗聖典 註釈版 八三五頁)

 

【訳文】

念仏が自分の力で努める善きおこないでありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。

 

浄土真宗のみ教えは、人は亡くなれば、阿弥陀さまのはたらきによって浄土に往生させていただき、さとりを開き、阿弥陀さまと同じように私たちを導いてくださっているというものです。ですから、何かのため、たとえば亡くなった人のために特別に「供養」するということはありません。故人を偲びつつ、生前のご恩、また、いまは仏さまとして見守っていてくださることに感謝して念仏する中で、私たちが阿弥陀さまのみ教えを聞き、諸行無常の世の中を精一杯生きていくことこそが大事なのです。

【令和版 仏の教え  幻冬舎 大谷光淳 P99~P101より】

 

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 ここで、「人は亡くなれば」とありますが、あくまでも、『生前に阿弥陀さまから「信心」を賜わった人』ということは、おさえておかなければなりません。死んだら誰もが仏さまになるのではありません。とても誤解されやすいところです。

  「信心」とは、浄土真宗辞典によりますと、「仏の教えを信じて疑わない心」とあります。換言しますと、阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」のはたらきに気付かされている、ということです。

 つまり、「人は亡くなれば」の箇所を丁寧に説明しますと、「いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさている人が亡くなれば」となります。誤解がないように、肝に銘じておきたいところです。

 おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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