たしかに、どのような宗教でも信を語ります。学問が疑いをその出発点とするに反して、宗教は信の可否が問題になるのです。ところが親鸞聖人が、
「信心」といふは、すなはち本願力回向(ほんがんりきえこう)の信心なり。
(『教行信証』「信巻」『註釈版聖典』二五一頁)
と述べられ、さらに覚如上人が、
この信をば、まことのこゝろとよむうへは、凡夫の迷信にあらず、
またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。
(『最要鈔』『真宗聖教全書(三)』列祖部、五〇頁)
と語られたように、浄土真宗の信はわれらが発す信心ではないということです。
したがって「真実信心」とか「真実の浄信」と称せられることを思えば、わがはからいはすべて否定されるものであって、信は「得る」ものであり「よろこぶ」ものであり、同時に「敬う」もの「いただく」ものなのです。まことに、
「信心」は如来の御ちかひをききて疑うこころのなきなり。
(『一念多念文意』『註釈版聖典』六七八頁)
ということばのとおり「まかす」ものなのです。
歌人として、また晩年は親鸞聖人の教えに親しんだといわれる伊藤左千夫は、浄土真宗を領解(りょうげ)して、
み仏の大きなめぐみの計らひの内に迷はずあれのみ教え
(『伊藤左千夫全短歌』四〇九頁)
と詠っています。はからいはわれらにあるのではなくて、如来がわれらをはからいたもうのであります。如来の真実にふれて、虚仮不実(こけふじつ)の身が根底からゆり動かされて、揺るぎなきは如来のまことのみと仰ぎ知られたとき、信をよろこぶすがたが出てくるのです。
【ことば ー仏教語のこころー 藤澤量正 本願寺出版 P35~P37より】
「浄土真宗の信心」について分かり易く紹介されています。「浄土真宗の信心」は、自分からとりにいくものでなく、いただくもの、とあります。つまり、仏さま、どうか助けてください、お願いします!と自分から阿弥陀さまに助けや祈りを差し向ける教えではありません。
世界には多くの宗教がありますが、その殆どの宗教は祈りの宗教ではないでしょうか(すべての宗教を知っているわけではありませんので、「すべての宗教」とはせず、敢えて「殆どの宗教」と記載)。浄土真宗の教えは、阿弥陀さま→わたし です。わたし→阿弥陀さま ではありません。方向が、他の宗教と180度違います。このことは、浄土真宗の教えの特徴といえます。我が計らい、は浄土真宗の教えを本当の意味で知る上では、ハードルになっています。浄土真宗の「信心」はとても大切なところですので、よくよく留意したいところです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏