手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ものみな金色なり

 築地本願寺の常例布教にお参りしてきました。久々の聴聞で気分爽快でした〜。
その法話の中で、
「ものみな金色なり」(京都女子大学名誉教授:徳永道雄)という話に感銘を受けましたので紹介いたします。
この言葉の背景に、四十八願(大無量寿経)の第三願である「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」があります。浄土真宗の仏壇は金ピカッですが、この第三願に起因しているとのことでした(知りませんでした)。
以下、話の内容が法話(活字)として紹介されていましたので記載致します。音声でも聞けるようです(リンクを貼り付けておきます)。※以下、抜粋


 阿弥陀さまの願の一つに「悉皆金色(しっかいこんじき)の願」というのがあります。これは阿弥陀さまのさとりの世界である浄土では、すべての「いのち」が金色に光り輝いており、一つとして輝いていない「いのち」はない、一つとして無駄な「いのち」はない、と誓って下さっているのです。つまり、仏さまの目から見れば、すべてのいのちは本来金色に輝いており、すべてのいのちは平等である、ということです。
 ところで、長年、京都女子大学で仏教学を教えてこられた徳永道雄先生(京都女子大学名誉教授)は、一年間の最後の授業で、このような阿弥陀さまの願いの心を説明され、学生さんたちに、「すべてのいのちは、いついかなる時でも金色に輝いている」という意を込めて、「ものみな金色なり」と、ノート一面に大きな字で書かせ、この言葉を社会に出て行く彼女たちへの「はなむけの言葉」とされていました。
 ある時、教え子の一人から、「この言葉によって救われました」というお礼の手紙が先生の所に寄せられました。その教え子というのは、卒業後、結婚され、やがて待望の赤ちゃんに恵まれますが、そのお子さんは生まれながらにして重い障害を抱えていたのです。最初は二人で頑張って育てていましたが、次第に夫婦仲もこじれ、二人は別れることになりました。お子さんと二人暮らしになった彼女は、一生懸命頑張りました。しかし、障害者への世間の目は冷たく、時には心ないことを言われることもありました。 彼女はほとほと疲れてしまい、とうとう「もうだめだ。この子と二人で死ぬしかない」とまで思い詰めるのです。呆然としたまま身辺整理をしていたところ、たまたま大学時代のノートが目に付き、何気なくペラペラとめくってみると、ノートいっぱいに「ものみな金色なり」と書かれた文字が眼に飛び込んで来たのです。その言葉は絶望の淵に沈んでいた彼女の心に深く染み入りました。そうして、あの時、聞いた徳永先生の「いついかなる時でも、いのちはみんな金色に輝いている」という言葉が鮮やかに脳裏に蘇えったのです。
 「そうだった、そうだった。障害を持って生まれた我が子のいのちは、金色に耀く尊いいのちであった。この子は今、そのいのちを精一杯輝かせて懸命に生きているんだ。」 彼女は大粒の涙を流しながら、我が子を強く強く抱きしめました。
【「ものみな金色なり」 平成24年3月 より】
http://www.koumyouji.com/houwa/60.htm


第三願(悉皆金色の願)
若し我仏を得たらんに、国中の人天悉く真金色ならずんば正覚をとらじ
(私が仏となる以上、私の国土に住む、人々や天人の肌が、ひとりでも金色に輝いていないことが万が一あるようならば、その間、私は仏となるわけにはいかない)



「ものみな金色なり」
という言葉の放つはたらきが、自死を回避させた、という話です。
彼女にとって、この言葉は単なる文字や記号ではありませんでした。心響かせる言葉だったのです。
「南無阿弥陀仏」も然り。その6文字の言葉には、阿弥陀さまのいのちが込められています。その温もりを感じたいものですね。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


築地本願寺(聞法ホール) 平成29年3月5日(日)



追記しました!



https://www.youtube.com/watch?v=_cKd0wE6rxU&feature=youtu.be&t=2054
梯 實圓 師  ※専精会 福井支部 平成24年度 行信講座 より