手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏のはたらき

 人智は有限である、不完全であるといいながら、その有限不完全なる人智をもって、完全なる標準や無限なる実在を研究しようとする迷妄を脱却することは難しいことである。私も以前は、真理の標準や善悪の標準が分からなくては、天地も崩れ、社会も治まらぬ様に思ったことであるが、今は、真理の標準や善悪の標準が人智で定まる筈がないと決着しております。(中略)
 私はただ、この如来を信ずるのみにて、常に平安でいられることが出来る。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満(へんまん)してある。如来の能力は、十方にわたって自由自在無障無碍(むしょうむげ)に活動している。私のこの如来の威神力(いじんりき)に乗託(じょうたく)して大安楽と大平穏とを得るのである。私は私の死生の大事をこの如来に寄託(きたく)して、少しも不安や不平を感ずることがない。
清沢満之 集 岩波文庫 P19〜P21より抜粋】
※一部、現代語に改編

 
無障無碍(むしょうむげ)
何にも遮られず妨げられない


威神力(いじんりき)
常人の認識力や思議の限界を超えた力


乗託(じょうたく)
身も心も完全に委ねる



南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人生は大安心ということです。その人生は、生きてよし死んでよし、となります。つまり、感応道交の生活を送ることができる、ということです。その生活において「死に対する不安」は一切ありません。阿弥陀さまと一緒ですから・・・。
その(南無阿弥陀仏のはたらきの)気付きの絶好のチャンスは、「このいま」です。「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉がありますように、生と死は表裏の関係です。もう残された時間はありません。「死の縁は無量なり」「後悔先に立たず」肝に銘じたいフレーズです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


感応道交(かんのうどうこう)
仏と人、また教えるものと教えられるものとの気持ちが通いあうこと。衆生の機応と仏の応化とが相通じて融合すること。