手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「仏法を聞く」とは

 「仏法を聞いてください」という僧侶は少なからずおられます。しかし何をどのように聞けばいいのかよくわかりません。仏法を聞くのにどのように聞くのかという指南はほとんどありません。「どう聞くのかなどという解説が必要なのではなく、とにかく聴聞するしかないのです、仏法をしっかり聞いてください」と言われるでしょう。そう言われればまったくそのとおりです。
ところが、聞いても聞いてもまったく仏法の核心部分のところがわからない法話というのがたくさんあります。仏法をどう聞けばよいのかという指南が必要なのではなく、肝心要のところをズバリ聞かせてもらわなければ話になりません。
 話はおもしろい、例話も豊富、人生訓のようなものも挿入されている。でも、それなら別に仏法と言わなくても倫理的や道徳的な講演と変わりはないでしょう。まったく仏法と縁のない人でも、人生を生きてゆくために役立ち、精神的に豊かになる話をする人はおられます。
 仏法は理屈っぽいし、わかりにくい、難しいと言われるから、それに応えるようにわかりやすい仏法の話、楽しい法話が工夫されます。これはとても大切なことではありますが、阿弥陀さまの本願が私をめあてにはたらいてくださっているところが抜けてしまっては法話にはなりません。


 仏法は倫理や道徳とは全く無縁ではありません。しかし仏法が倫理や道徳と決定的に違うのは、阿弥陀さまの願いとはたらきに基づいているか否かというところにあります。
 阿弥陀さまは智慧と慈悲に限りのない仏さまです。限りない智慧と慈悲を有しておられるだけならそれは宝の持ち腐れですが、それがしっかりとはたらきとなっているところを聞かなければなりません。それも私めあてに発せられていることを聞かせてもらうのです。
 形があって目で見えるものなら信じられるが、話ばかりでは物語でしかない、と思われるでしょう。私もそんなとらわれの期間を長く過ごしてきました。阿弥陀さまのはたらきは、光にたとえられているというのは、形が無くてもはたらきがあることを示しています。光には人間の目では見分けることのできない光もあるのです。すべて私が認知しなければ納得しないということ、その思いこそが傲慢です。


 かたくなで決して聞くことのない心が、人の優しさに触れることによって変わっていくということはよくあることです。限りない智慧と慈悲にどっぷり浸かっていることに気づかずとも、どっぷり浸かっていることを教えられ続ければ早くきづくでしょう。教えられているにもかかわらず、そこに耳を傾けず自分勝手に生きていてはなかなか気づけないでしょう。
 それでも、どこにどんな縁があるかわかりません。まったく思いもよらなかった事態に至り、智慧と慈悲に気づかせてもらうこともあるでしょう。すでに阿弥陀さまに願われて生かさせてもらっているのですから。
【われも六字のうちにこそ住め 西光義秀 樹心社 P53,P54より】



親鸞聖人は『一念多念文意』に、
「きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」(『註釈版聖典』六七八頁)
と述べられています。
「仏法を聞く」とは、南無阿弥陀仏のおはたらきを、そのまま素直に受けとらせて頂く、ということです。つまり、このいま、この私に、はたらいている南無阿弥陀仏のおはたらきを気づかせて頂く、ということです。
今日も南無阿弥陀仏