手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聞くべき・伝えるべきは「仏願の生起本末」であり「弥陀の本願」

布教使の使命


 「お念仏をいただいて生きる」「本願に生かされている」「生かされていることに感謝して生きる」等々の言葉を聞きますが、この言葉がどれだけの人の心を打つでしょうか?この言葉を口にした人たちが、ほんとうにそのように生きようとしている姿が見えるのかどうか、そこのところを見ている人たちがおられることを忘れてはなりません。そのように生きることができなくとも、そのことを痛みに感じているかどうか、念仏の声が聞こえるかどうか。そんなところを、もっと真摯に、謙虚に、素直に、振り返る必要があるでしょう。当然のことながら、これは私自身に「おまえはどうなのか?」と問われることでもあります。
 阿弥陀さまの願いには、駆け引きも損得も本音もたてまえもありません。素直に、ズバリと核心を突いてきます。それを、私たちは、実にいろんな思い、はからいで受け取るのです。それをまた、実にいろんな思い、はからいをもって人に伝えようとします。それはもう、阿弥陀さまの純粋な願いではありません。そんなものを、どれだけくり返したところで、人の心を打つはずはありません。
 聞くべきは「仏願の生起本末」であり「弥陀の本願」です。伝えるべきも同じ「仏願の生起本末」であり「弥陀の本願」です。聞いたところは、御同行・御同朋の間で、それぞれに自分の言葉で伝え合い、またそれぞれの言葉を通して聞き合うことを通して分かち合い、確認し合うことです。      〈中略〉


 念仏に力がないのではないのです。念仏をいただいていないから、力にならないのです。念仏を聞かない人がいるのではなく、伝える側に伝えるべき念仏がないのです。それはそのまま、私に向かって、「わが信や如何に」と問うべきことです。
【われも六字のうちにこそ住め 西光義秀 樹心社 P155〜P157より】



この文章を読んで、
まことに勝手ながら「布教使の使命」というサブタイトルをつけさせて頂きました。
というのは、以前、聴聞したときの苦い経験が蘇ってきたからです。
法話が始まって1時間がたっても、阿弥陀さまの「あ」の字も、南無阿弥陀仏の「な」の字もいっこうにでてこない状況が続きました。ひたすら「世間話」及び「じゃんけんぽん」のレクリエーションでした。途中退席したのはいうまでもありません。
多くの門徒さんがおられましたが、果たしてどういう思いで聞かれていたのでしょうか。
なかには、「楽しいなぁ〜」という方もおられたかもしれませんが(笑)・・・
いろいろな意味で、機会損失はデカすぎます!

布教使(浄土真宗)の方には、この西光師の言葉を重く受け止めて頂きたい、と切に願います。
とても高いところから、偉そうなことをいって誠に申し訳ございません。
芸能レポーター 梨元 勝 ならぬ、布教使レポーター 手品師 でした。
恐縮です。