手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

思いやり・やさしさ故に

 

f:id:tarou310:20200606060355j:plain【2020年6月6日(土)朝日新聞(朝刊) ひと(2面)より】

 

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本日の朝日新聞(朝刊)の記事からです。
「供養が死者の慰めになるのは勝手な満足。でも死者の思いに引かれて参らずにはおれんのです」
という部分は、「恵信尼消息」に記されている親鸞聖人のある(下記)出来事と重なります。

『今から17、8年前、やはり飢饉の時に「衆生利益」(天候の回復・飢饉の終息の祈願)のために「浄土三部経」を千部読もうと思い立ち、数日間は実行したものの、本願の念仏をみずからが信じ、また人にも教えて信じさせることこそが本当の意味で人々を助け、また仏様の恩にも報いる道であると信じながら、いったい何が不足で自分は経を読もうとしているのであろうか。読経という善根を積んでその功徳を衆生利益のために振り向けるということ自体が、あたかも自分の読経が衆生に利益をもたらし得るほどの善行である、言い換えれば自分が善を行じることできる者である、という自分と自分の行為への過信(「自力の執心」)ではないのか。』と思い返して止めたことがあった。しかし、今回の大飢饉を前にして、人々を無為に死なせたくないと思うあまり、知らず知らずのうちにまたしても自分は読経の力にすがろうとしていたのであろう。
【西念寺だより 専修』第36号〈2011年6月発行〉より】
http://www.sainenji.net/live1106.htm

 

恵信尼消息(3) 《現代語訳》

 親鸞聖人は、 寛喜(かんぎ)三年四月十四日の正午頃から風邪気味になり、 その日の夕方から床につかれてひどいご様子であったのに、 腰や膝もさすらせず、 まったく看病人も寄せつけず、 ただ静かに横になっておられましたので、 お体に触れてみると火のように熱くなっておられました。 頭痛の激しさも、 普通ではないご様子です。
 さて、 床につかれて四日目の明け方に、 苦しそうな中で 「これからはそうしよう」 と仰せになったので、 「どうなさいましたか。 うわごとを仰せですか」 とお尋ねしました。 すると聖人は、 「うわごとなどではありません。 床について二日目から、 無量寿経(むりょうじゅきょう)を絶え間なく読んでいました。 ふと目を閉じると、 経典の文字が一字残らず光輝いてはっきりと見えるのです。 さてこれは何とも不思議なことです。 念仏して浄土に往生すると疑いなく信じることの他に、 いったい何が気にかかるのだろうと思い、 よくよく考えてみると、 今から十七、 八年前に、 人々を救うため、 心を込めて浄土三部経(じょうどさんぶきょう)を千回読もうとしたことがありました。 けれども、 これはいったい何をしているのか、 往生礼讃(おうじょうらいさん)に、 自信教人信難中転更難(じしんきょうにんしんなんちゅうてんきょうなん)〔みづから信じ、 人を教へて信ぜしむること、 難きがなかにうたたまた難し〕といわれているように、 自ら信じ、 そして人に教えて信じさせることが、 まことに仏の恩に報いることになると信じていながら、 名号を称えることの他に何の不足があって、 わざわざ経典を読もうとしたのかと、 思い直して読むのをやめました。 今でも少しそのような思いが残っていたのでしょうか。 人が持つ執着の心、 自力の心は、 よくよく考えて気をつけなければならないと思った後は、 経典を読むことはなくなりました。 それで、 床について四日目の明け方に、 これからはそうしようといったのです」 と仰せになり、 間もなく汗をたくさんかいて回復されたのです。
 浄土三部経を心を込めて千回読もうとされたのは、 信蓮房が四歳の時で、 武蔵の国か上野の国か、 佐貫というところで読み始めて、 四、 五日ほどして思い直し、 読むのをやめて常陸の国へ行かれたのです。信蓮房は未(ひつじ)の年の三月三日の昼に生れたので、 今年で五十三歳になるかと思います。
弘長三年二月十日 恵信

※信蓮房(親鸞聖人の第4子)

 

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 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さまに対する「報恩感謝」、簡単に言いますと「ありがとうございます!」のお念仏なのでした。お念仏(南無阿弥陀仏)は、決して、先祖供養のために唱えて勝手に自己満足する類(たぐい)のものではない、という点はしっかりおさえておきたいところです。
おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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