親鸞聖人は『教行信証』のなかで、『大無量寿経』の異訳である『平等覚経』のことばを引用して「楽(この)んで世尊の教を聴聞せん」(「行巻」)と示されてきますが、その「聴聞」の語句に「ゆるされてきく、信じてきく」の左訓を付しておられます。
本来、「聴」という文字は〈くわしくききとる〉ということを意味しています。〈耳をそばたてて聴く〉ということです。この文字に〈ゆるす〉という意味があるのは、縁あって聴くことのできる身になったということでありましょう。しかし「聴けども聞こえず」といわれるように、聴きに出かけて耳を澄ませてみても、相手の意を受けることができないなら、聞こえていないということです。
したがって「聞」という文字は、告げ知らされたものが、耳にたしかに感受された状態をさすのであって、音声が心にゆきとどいたことです。親鸞聖人が「シンジテキク」と左訓をされたのは、如来の仰せをわがことと間違いなく聞きひらいたことをこそ「聞」と称されたのです。
衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし
(『教行信証』「信巻」『註釈版聖典』二五一頁)
とか、
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。
またきくといふは、信心をあらはす御(み)のりなり。
(『一念多念文意』『註釈版聖典』六七八頁)
と述べられたことによっても、浄土真宗の教えは、すでに如来に喚ばれているわたしであったと聞こえる身になるということが大事なのです。蓮如上人が「聴聞を心に入れ」(蓮如上人御一代記聞書』第一九三条)と誡められたのも、まさにわがためと聞く耳を持てということでありました。
【ことば -仏教語のこころ- 藤澤量正 本願寺出版 P45~P47より】
「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」
と言ったのは(浅原)才市さんです。うまく表現したものです。
また、
「(南無阿弥陀仏を)聴きに行き続けておる間に、向こうから聞こえてくる」
と表現したのは久堀弘義 師(浄土真宗 本願寺派 1921年~2005年)です。
いずれも私の好きな言葉です。
わたしが、南無阿弥陀仏を信じようが信じまいが、南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされていることには変わりありません。つまり、わたしの生活は、阿弥陀仏さまと共にあるということです。その南無阿弥陀仏のはたらきに、いま・ここで・わたしが気付かされるか否かはとても大事なところです。
おかげさまで 今日 南無阿弥陀仏