手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

たしかなよろこび

   いま、南無阿弥陀仏の六字の名号は、阿弥陀如来が、無限の智慧と慈悲をそなえて、真実の世界から「仏の願いに目覚めよ」とあらわされたもうた仏の喚び声であり、それは、

      究竟(くきょう)して聞(きこ)ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。

                   (「重誓偈」『注釈版聖典』二四頁)

と誓いたもうた仏の大いなる名告りであります。

 思えば、仏はみ名であり、み名は仏そのものなのです。喚び声は力であり、真の力は仏のいのちを得てこそであります。しかも「わが名を称えよ」と喚びたもう仏の声は、同時に「汝よ」とこの私を喚びたもう大地の顕現であって、われらは、その喚び声にあたためられて南無阿弥陀仏とみ名を称える身に育てられるのです。人間のかなしみに底なきが故に、仏のいのちは無量寿であり、われらが苦悩や罪業のなかで流転する故にこそ、仏の智慧は無辺際であります。

 この如来の大悲に抱かれ、この仏の大智に導かれて、

  ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。

                                  (『歎異鈔』第一六章、『注釈版聖典八四九頁』)

と知らされたとき、念仏申さるる人生が開かれるのです。それも阿弥陀如来に大いなるはたらきによると知らされれば、われらは、南無阿弥陀仏によって南無阿弥陀仏と申さるる身になったのだと気づかされるのです。篤信の教育家であった甲斐和里子(かいわりこ)女史が、

  御仏をよぶわがこゑ(声)は御仏のわれをよびます御声なりけり

                         (『草かご』二四四頁)

と詠われたのもそのことを示しているのであり、さらに

  御仏の御名をとなふるわがこゑながらたふとかりけり

                         (『同』)

 とよろこばれたのをみても、南無阿弥陀仏とみ名を称うる身になることは、わが人生にたしかなよろこびと力を得ることであると知ることができます。

 仏のみ名を如実に聞くことによって報謝の称名が生まれ、つねに念仏申す人生を持ち得てこそ「無礙の一道」)『歎異鈔』第七章)を歩みことができるのです。私たちは聴聞を重ねることによって身も南無阿弥陀仏、心も南無阿弥陀仏、「南無阿弥陀仏の主(ぬし)に成る」(『蓮如上人御一代記聞書』第二三七条)ことこそが、人と生まれ得た何よりの所詮であるということを思い知りたいものであります。

【ことばとともに生きる 藤澤量正 本願寺出版社 P30~P33より】

 

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『南無阿弥陀仏』について非常に分かり易く表現されています。

「たしかなよろこび」いいですね~。「よろこび」といいましても長続きしません。しかしながら、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたよろこびは崩れません。まさしく「たしかなよろこび」といえましょう。よろこびといいましても、「やった~!」みたいな派手なよろこびではなく、「静かなよろこび」ですね~

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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