手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏さまの救いとは

 もともと仏教とは、真実に目覚めた方である仏陀のみ教えを聞いて、生と死に処する正しい法を知らせていただき、正しい道理に目覚め、正しい道理の感覚を身につけさせていただく宗教であったはずです。言い換えれば仏教は、私どもに新しい目覚めと精神の秩序をつくり上げてくださるわけで、それを仏さまの救いというのです。

 ですから仏さまの救いは、海や川に泳いでいる魚を網で掬(すく)い取るようなものとはわけが違います。金魚掬いのような‟すくい„ではないのです。金魚掬いならば、あちらの汚いタライの中で泳いでいた金魚を掬い上げて、こちらのきれいな金魚鉢に移し替えればそれで金魚を掬ったことになりましょうが、それはただ場所を変えただけで、金魚そのものは何の変わりもありません。

 私どもが浄土に救い取られていくということは、ただ場所を変えるだけではありません。中身が全く転換し、その行動様式が全く変わることを意味していたのです。それが、凡夫が仏になるということなのです。自己中心的な無明煩悩に支配されて、自他ともに傷つけあって、無慚無愧(むざんむぎ)な生き方をしていたものが、生死(しょうじ)を超えて、生死一如(しょうじいちにょ)とさとり、自他の垣根を完全に超えて自他を一如と見なすことのできる智慧の眼を開き、人々の悲しみ、痛みを、自分の悲しみ、痛みを共感し、人々の安らかな幸せを、我がこととして願い求め、実現しようとはたらく智慧と慈悲の実現者となることを意味していました。

 ですからこの世にあっても、み教えを聞き、本願を信じ念仏するほどの人は、少なくとも自身が煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫であり、自分本位の考え方を持ち、愛欲を起こし、人を憎み、腹立ち妬むような自分を、恥ずかしく、申しわけなく、慚愧するものに転換しているはずです。もし教えを聞いたが、心には何の変化もなく、ただ煩悩の赴くままに生きて恥じないような人ならば、教えを聞いたものとは言えないのではないでしょうか。

 人間はもともと過ちを犯さずには生きていけないものです。しかし過ちを過ちと気づき、罪を罪と気づいて慚愧するしかないかが問題です。罪の意識を持つか持たないかが問題なのです。慚愧し、罪の意識を持つものの心にはブレーキがかかり、方向転換する機会が与えられていますが、罪に意識がないものは、そのまま破滅に向かって暴走するしかありません。

【『歎異抄』師訓篇を読む1 梯實圓和上講話集 自照社出版 P54~P56より】

 

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煩悩具足の凡夫といえども、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は、罪の意識をもち、心にブレーキがかかるようになる、といわれています。(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は)寿命尽きて浄土に往生するまでの期間、つまり、人として生かされている期間の心のもちようは、信前と信後では違ってくるということです。私自身、あと何年、人として生かされるか分かりませんが、1日1日大事に生きていきたいと思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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