手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

妙好人 物種吉兵衛(ものだねきちべえ)

楠:
 吉兵衛さんは西方寺元明さんに会ってから奥さんに、
「私に暫く暇をくれぬか、あのようなお方のお供をして行きたいから」
と言って暇を貰うんです。そうしてどこまでも聴聞したい一心から西方寺師に付き纏うようにしてお説教に行かれる師の両掛けの荷物を担いで、遠近を問わず師の行かれる所へはどこへでもお供をして行き、昼夜付き纏うて聴聞したと書いてあります。おそらく六、七年あるいは十年近くはそういう生活が続いたと思われます。
 彼の師への奉仕ぶりには面白い話があるんですが、それは今省略して、とにかく忠実に熱心に仕えてその化導を受けました。その間にいろいろなことを尋ね、いろいろな教えを受けたんです。そういう経過を通ってこれだというものを把んだと思います。
 その吉兵衛さんの把んだこれだというもの、真宗流に言うと阿弥陀様の救いの呼び声の聞きようについて、ある時元明師は彼に尋ねるんです。語録のそこのところはこうです。
 

西方寺様はある時、少し訛言葉で、「吉兵衛殿、お前さんはエッピド(余程)名が高くなってきたそうじゃが(信者仲間の間で有名になってきたようだが)、聞いたになっていやせぬか、また聞こえたになっていやせぬか」とお尋ね下された。その時「聞こえましたとも申しあらわすことはできませぬ。また、聞こえませんとも申しあらわすことはできません」と申し上げたところ、「その通りのことであるワイのう。コレ吉兵衛殿、仏法に遇うことは大切ないゾエ(大切なことだ、大変なことだ)」と、ただ大切ない大切ないとばかり抑えつけて仰せられた。


金光:
 阿弥陀様の呼び声を聞いたになっているのじゃないか、また聞こえたになっているんじゃないか、という元明師のお尋ねに対して吉兵衛さんの答えは、聞きました聞こえましたとも言えないし、それかといって聞きません聞こえませんとも言えません、というのですね。
楠:
 普通常識的に言いますと、どちらかの答えになりますよ。聞きました、聞こえましたと言うか、聞こえませんと言うかどちらかですよ。ところが彼の答えは聞こえたとも言えないし、聞こえないとも言えないというのです。何だかはっきりしない、いい加減な答えのように思われますが、そうじゃないのです。
 聞いたとか聞こえたとか言うと、聞いているあるいは聞こえているその事実が進行している現況そのものの活写ではなくなって、進行している事実の過ぎ去った足跡を言っていることになります。阿弥陀様の呼び声(あるいは阿弥陀様の働き)はその声が出されて響いている、まさにその響きの現在進行形に於て聞くべきだということです。過去形でもなく現在完了形でもない、現在進行形に於て聞くべきものだと、それが阿弥陀仏から直入してくる声の聞き方だというのです。一切の分別思量を入れずに、仏からの直渡しの声を聞くということ、それは仏の働きそのものに包まれるということにもなります。ですから事実を事実のまま伝えるとすると、その事実のどちらかの一面を伝えて事実の全体を伝えたことにはならないので、事実の全面を伝えるには、特に宗教経験のような深い精神的事実の全面を伝えようとするには、人間の言葉は不自由なものです。それを承知していると、吉兵衛のように両面否定の表現が仏の声の働きを如実に現わすのに最もふさわしいと思うのです。
妙好人の世界  楠 恭  金光 寿郎  法蔵館 P45〜P48より】



さすが妙好人といわれるだけありますね。
吉兵衛さんの受け答え、絶妙です。


【吉兵衛さん】
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