2012-03-17から1日間の記事一覧
或人問うて云く、信心とは如何、 和上答えて云く、御助けに疑いはれたが信心と云うべし、 或人云く、爾らばその疑いはれるとは如何、 和上云く、疑うてはならぬと云えばなおなお疑う故に、願力の御不思議で御助け下さるに間違いないと信ずるばかりなり、夜の…
或人問うて云く、私は御信心を頂いたのなら何か確かな思いになりそうなものと存じます、然るに何とて確かな印しが御座りませぬ故どうも安心が出来ませぬ、 和上答えて云く、その計らいは丸で自力なり、我胸を押さえて参れようか参れまいかと探る心を喩えて見…
信心を頂くとは、南無阿弥陀仏のおはたらきを気付かせて頂くということです。
気付くということは、すでに届けられている、すでにつつまれているということです。 私のはからいが、阿弥陀さまのおはたらきをブロックしているのです。 もったいないことです。
「聞こえたままが信心」であって、聞いたツモリではありません。
信心は、つかみにいくものではありません。 そもそも、つかみにいってもつかめるはずもなく、信心は物ではありません。
自分の知識や経験といったものさしでいくら計らっても、結局裏切られます。 阿弥陀さまのものさしに依らなければなりません。
『ただ仏法は聴聞にきわまることなり』と、蓮如上人は「御一代記聞書(一九三)」でお示し下されています。 そこで、留意しなければならないことは、 聴聞したから、阿弥陀さまに救われるということではありません。 聴聞に傾いて、肝心の阿弥陀さまがどこか…
「私が聴いているうちに、聞こえてくるのです」 私の好きな表現のひとつです。
「いつ帰って来てもええんやで〜」 帰るところがあることは誠にありがたいことです。 生きてよし、死んでよし、なのです。 そこには大安心があります。
平成24年3月16日撮影 昨日、願教寺(盛岡市)のご法座にお参りしました。 今回は、観光ではありません(笑)。 講師は、守 快信 師(滋賀・東光寺)でした。 聞かせて頂いたことを、自分なりに表現させて頂きました。 非常に味わいのあるご法話でした。 【ご…