手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

根本的な違い

 信じることと信じていると思うこととは根本的に違うのです。思うという余計なものがなくなったところが信なのです。だから、本当の信心というのは確信という状態から最も遠いもののように思います。「私は阿弥陀さまに助けられると確信しております」。「私は助かると思っています」。あるいは「私は阿弥陀さまを絶対に信じています」。これらは信心ではない。それは私の心にすぎません。なぜなら、そういう心はすぐに反対の疑心になるからです。確信の反対は疑心です。「助かる」と信じている心は「助かるだろうか」との不安にたちまち変わる。少なくとも両者は相対的です。山のお天気みたいに入れ替わり、立ち替わりする。確信が晴れたら、見る間に黒雲の疑心が湧いてくる。「これでいいのだろうか」との心配がまた出てきます。確信と不安が交(こもごも)する。だから確信というのは信用できないのです。
 真実の信とは「助かるだろうか」という心配も「助かる」という確信もいらないということです。これが他力の信です。このことをたとえてよくこういう話をします。「大地を歩くときに、あなたは大地を信頼して歩いていますか」と。今ここで足を前に出したら地中に落ちないだろうかなどと私どもは考えながら歩いているでしょうか。「私は大地は絶対に裂けないと確信して歩いています」という人がいますか。あるいは反対に「いつ裂けるかとビクビクしながら歩いています」という人もいないでしょう。そういうときには、疑い心とか確信とかいうものはないですね。両方ともないのです。
親鸞のダイナミズム 大峯 顕 P156,P157より】