手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

妙好人 浅原才市(あさはらさいち)

楠:
 ここに一つ歌を出しますと、


わたしゃあさまし
親のご恩がよろこばれん
よろこばれんなら ほうっておけよ
凡夫がよろこぶ法ではないよ
ごおんうれしや なむあみだぶつ。


金光:
 ハハアー、やはり才市でも「親のご恩がよろこばれん」と言うんですね。
いつもいつも嬉しいとか有難いとかと喜ぶことができていたということじゃないわけですね。
楠:
 よろこばれんのはそれはもう当然の話で、凡夫はそんなもんだというんです。
金光:
なるほど。「凡夫がよろこぶ法ではないよ」と。
楠:
そうそう、「凡夫がよろこぶ法ではないよ」と。凡夫がよろこぼうとよろこぶまいと、法は法として厳然とあるんだと。
金光:
しかしその後に「ごおんうれしや」とちゃんとあるんですね。
楠:
そうそう、その後に「ごおんうれしや」がある。凡夫の自覚の深いところからは、つまり凡夫の実体を知らされた才市としては、そのお知らせ(仏の働き―あさましい凡夫に付いて離れぬ仏の働き)を「ごおんうれしや」と言わざるを得ないのでしょう。自然にそれが出て来るんです。そう見ますと、結局の「ごおんうれしや、なむあみだぶつ」はこの歌のもう一つのポイントだと思います。
 「親のご恩がよろこばれん」と言い、すぐに「凡夫がよろこぶ法ではないよ」と言って、そんなら法は凡夫にどう関係してくるのか、どう働いてくるのかというと、法は凡夫の喜ぶ喜べぬに係わりなく、凡夫の実体を知らせる働きとして、向こうから働きかけてくるというわけです。喜べる時には自分が喜ぶのじゃなしに、法が才市を喜ばせる。喜べぬ時には喜べぬ自分だと法が知らせてくれる。喜ぶ喜べぬの主体が自分ではなしに、仏にあると考えられます。自分に主眼を置くと、喜んで有頂天になり、喜べなくてがっかりする、つまり凡夫の胸の思いに引き回されることになります。才市は喜ぶにしろ、喜べぬにしろ、全くあなた(親様)まかせです。自分の思いに見向きもしない。ただ自分というものを知らせてもらった彼としては、それを知らせてくれる働きに対して「ごおんうれしや」と言わざるを得ないでしょう。
妙好人の世界  楠 恭  金光 寿郎  法蔵館 P120〜P122より】


【ちょっとひとやすみ】
浅原才市(あさはら さいち)
1850年嘉永3年)2月20日 − 1932年(昭和7年)1月17日)は、浄土真宗妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。
人物 [編集]
石見国大浜村字小浜(現島根県大田市温泉津町小浜)に生まれる。
父の要四郎は鍛冶屋で、母はすぎと言う。
要四郎は6歳で寺に入り、得度して西教と称した僧であったが、家庭の事情で還俗して家督を継ぎ、才市ができた。
また、要四郎は、才市ができてからも、寺に通って役僧をしていたという。
才市は、晩年を下駄職人として過ごした。
【ウィキぺディアフリー百科事典より】



味わい深〜い歌ですね!
ホント、うまく表現されています!さすが才市さん!