手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

計らいは自力

 或人問うて云く、私は御信心を頂いたのなら何か確かな思いになりそうなものと存じます、然るに何とて確かな印しが御座りませぬ故どうも安心が出来ませぬ、
 和上答えて云く、その計らいは丸で自力なり、我胸を押さえて参れようか参れまいかと探る心を喩えて見れば、オゝ過日父上が私に田地を壹町遣ろうとの仰せ、私は確かに貰うたが、胸にあるかないかと尋ねて見てもなきが如し、如何程悪くとも比儘助くるとの因位の御約束、その願既に成就したまえば、たゞ仰せに任せ奉るばかりなり、
 次に浄土に参れようか参れまいかと案じて見ても茫然として確と安心ならず、これ又自力執心なり、喩えば上京するに浜辺に出て、私は上京が出来まいか出来ようかと、逆立つ浪ばかり見ては千万年掛かっても上京するきまりは付かず、ソンなら如何して善いかと云うに、船に気が付いたら船頭に問うべし、乗せて遣ろうと云う声聞くなり安心が出来る、今も丁度その如く余は御勘考あれ、 
【七里和上 眞宗安心示談 其三十一 佐々木徳量 編  洗心書房 P61,P62より】


洗心書房
http://www.ne.jp/asahi/senshin/hiroshima/confidentially.htm


七里恒順 (しちり-ごうじゅん )
1835−1900 幕末-明治時代の僧。
天保(てんぽう)6年7月11日生まれ。
浄土真宗。南渓(なんけい)、月珠(げっしゅ)らにまなび、筑前(ちくぜん)(福岡県)博多の万行寺の住職となる。
西本願寺の執行(しぎょう)職に数年間ついた以外は自坊をはなれず、甘露窟という私塾で教育や布教に専念した。
明治33年1月29日死去。66歳。
越後(えちご)(新潟県)出身。号は松花子。
著作に「七里和上言行録」など。
kotobank.jp より】