浄土真宗の教えというものが、人を打たなくなるのは、そのお説教の言葉が記号になる時です。南無阿弥陀仏とか、極楽、お浄土とか往生とかいっているけれども、そういう言葉がみんな記号になっている時です。そんな記号で人は救われはしない。
罪悪深重の凡夫という言葉も記号になる。その言葉を使う人が本当にその言葉を感じて「ああ、自分は本当に罪深いものだな」という、そういう実感がない。凡夫という言葉を人ごとのように使っている。
それは言葉が記号になっているからです。言葉が記号になるということが一番恐ろしいことです。
だから、教えというものを自分がいただいて、人にもそれを伝えるという時に、一番大事なことは、記号でない生きた言葉として教えを受け取って、自分の実感というものを離れない言葉でそれを伝えていくという態度です。
【今日の宗教の可能性 大峯 顯 本願寺 p132,133より】
【手品師コメント】
妙好人 才市さんの詩に次のようなものがあります。
目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて
南無阿弥陀仏と 声でしられる
なむあみだぶつに抱き取られ
取られて申すなむあみだぶつ
「南無阿弥陀仏」は単なる記号や文字ではありません。
生きた言葉です!躍動があります!