手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

称名念仏

称名は、となえているという自分の行為に目をつけてはなりません。
もし、私の働きとして念仏を捉えるならば、私のような煩悩だらけの者がとなえたぐらいで清らかなさとりの世界に生まれることなどできるはずがないとしかいえません。
あるいはまた澄みきった心で念仏しているときは、いかにも往生できるように思いますが、愛欲や憎しみの思いで心が濁りきっているときなどは、たとえ念仏していても仏さまから遠く離れてしまっていて、とても往生できそうには思えなくなってしまいます。


それは、
本願の行であるお念仏を、わたくしの行にしてしまっているからそうなるのでございます。
如来さまのお気に召すような真実な行いは何一つできない、煩悩まみれのわたしの根性を見抜いたうえで、しかも見捨てたもうことなく、わたしにも頂くことができるように称名というこのうえもない易行を選びとって「これを頂いて称えてくれよ!」と願いを込めて与えてくださっているのが、本願の行としてのお念仏でございます。
それは、如来さまの願いの結晶であり、親心の結晶であるといわねばなりません。


もっといえば、
念仏していることは「お願いだから念仏申す身になってくれよ!」と願われた如来さまの願いが、わたしの上で実を結んでいる姿であるといわねばなりません。
念仏するのはわたしの仕事で、救うのは仏さまの仕事であると考えてはなりません。
わたしを念仏の衆生に仕上げているお力が、わたしをお浄土へ連れていってくださるお力だったのでございます。


如来さまは、仏道からはみ出してしまっているわたしの為に、この身にふさわしい称名念仏という行法を、すでに定めていてくださったのか」と思うと、
「見る人はいなかったけれども涙がこぼれてならなかった」と(法然)上人は当時を思い起こして語っておられます。
正信偈講話 源空章八句 梯 實圓 和上 すねいる CD法話より】