手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

弥陀をたのめ とは

信心とは、わたしの方から「どうぞ助けてください」と祈願することではない。
「われにまかせよ、必ずたすける」とおおせくださる阿弥陀仏の本願のみことばを聞いて、
このとりえなき身を如来におまかせすることです。
蓮如上人が「弥陀をたのめ」といわれたのも、わが身をたのむのじゃなくて、必ずたすけてくださる如来の本願力をたのみ、まかせよとすすめられていたのです。
あるとき森山勝次郎という同行が、
如来をたのむとは、どうたのむのか」とたずねたとき、
庄松は、
「お前は弥陀を頼んだことがないと見える。如来をたのんでみよ」
                                  と答えたそうです。
「そのままわれにまかせよ」とおおせられるのに
「どうたのむのか、どうまかせるのか」は全くいらぬせんさくです。
それこそまかせていないすがたといわねばなりません。
如来をたのんでみよ」の一言は千金の価があります。
妙好人のことば(讃岐の庄松) 梯 實圓 法蔵館 P77,78より】 


【手品師コメント】
阿弥陀さまは、「そのまま、わたしにまかせてくださいよ!」といわれています。
ですので、私は、そのままおまかせさせて頂くだけです。
そこに、「どうたのむ」とか「どうまかせる」の「どう〜」の入る余地はありません。
「どう〜」は自分のはからいです。
自分中心になってしまっています。
自分から差し向けてしまっています。
肝心要の阿弥陀さまが、どこか遠くにいってしまっています。
阿弥陀さまに、ただおまかせさせて頂くしかありません。