手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

なぜ、命は尊いのか?

現代日本の生命尊重論 
 何年か前、過激派のハイジャック事件のとき、人質をとりもどすために相手の要求をのんで政治犯を釈放することを決めた首相は、「個人の命は地球より重い」と言ったことがある。個人の生命尊重は、今日の日本では議論を要しない無条件的な暗黙の了解事項となっているようである。その他の問題ではどんなに意見が対立していても、命は大事だという点になると人々の意見はにわかに一致するのである。
 しかしながら、生命尊重ということは果たして、そのように自明の了解事項たりうるのだろうか。生きているということが、よいものか悪いものかということは、すぐには誰にもわからない問題である。「大切なのはただ生きているということではなくて、よく生きるということなのだ」というソクラテス(Sokrates,BC470‐399)の有名な言葉が思い出される。早晩、死をもって終るこの地上の短い命に、いったいどのような意味があるのだろうか。個人の命をして地球より重いものたらしめているゆえんのものは何か。そういうものを発見しないかぎり、いくら生命の尊厳を主張してみても、本当は、「おたがい死にたくないね」という個人的な心情を言いかえただけのことである。しかし、死にたくないという消極的な心情と生命の尊厳の自覚とは決して同じではないのである。
●生命はなぜ尊厳か 
 個体の生命をして尊厳たらしめるゆえんのものは、個体の生命それ自身ではなく、個体を超えた普遍的な生命に他ならないということが、仏教やキリスト教などの世界宗教に共通する根本思想である。命はもちろん個体をはなれては無いが、それにもかかわらず、個体の命は個体以上の超越的な次元にその根拠をもっているのである。個体が生きているということの真相は、そういう大きな根源的生命がひとつひとつの個体を貫いているということに他ならない。世界宗教の偉大な開祖たちは、この根源的生命を「神」や「仏」の名で呼びすべての個体を生かしている大いなる生命への覚醒を教えてきたのだと思われる。
 そうすると、現代日本に流行する生命尊重論はやはり一種の疑似宗教なのである。個体の命以上の次元への視座が欠落しているからである。(以下、略)
【宗教への招待 =宗教の再生のために= 大峯 顕 (財)放送大学教育振興会P18,P19より】




『宗教とは何ぞや?』と関心がある方、この本をお勧めします。
今年4月に、著者である大峯先生にお会いした折、
「先生の数あるご著書の中で特にお勧めは何ですか?」と尋ねさせて頂いたところ、
その一冊として「宗教への招待」を挙げられました。
この本は、放送大学の教材でもありました。
読み易く、内容もかなりよいですよ〜


なぜ、命は尊いのか?(その2)
     (なごりをしくおもへども『歎異抄』第九条 大峯 顕 百華苑 P16,P17より)
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20111030#1319983505