手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏教は何のためにあるのか?

 

 驚きのないところには仏法は始まらないのだと思います。「このような世界があったのか」と、思ってもみないような世界、ものの見方があったと、こういう驚きです。 大谷大学にも大勢の学生がきていますが、その中で一番驚きが少ないのがお寺の長男です。僕もその一人ですが。こんなものだと始めから知っているのでしょうか。特に最近は「立派な住職になるためにここにきました」という学生が増えてきました。ある意味では良い心がけかも知れませんが、驚きのないままに仏教の勉強をするものですから、「今日はここを覚えました」となるのです。「このお経も読めるようになりました」と、テクニックになってしまうのですね。ですから、いつまでも自分を打つものとして響いてこないのです。これはなかなか厄介です。
 時々私も生徒を驚かす意味で、「立派な住職とは何か」と問うてみるのですが、答えは出ません。「ちゃんとお参りして、ちゃんと報恩講を勤めて」と言うので、「ちゃんと、とはどういう意味か」と問うと、やはり答えは出てきません。ある学生は、親にそのことを言ったのでしょう。次の日に電話がかかってきたことがあります。「うちの子がやっと寺を継ぐ気になって、大谷大学に行ったのに、なんということを言ってくれるのだ」ということでした。みんな大真面目です。不真面目ではありません。だから厄介なのです。大真面目に勉強をする。しかし、その勉強が驚きのないところでやりますと、やはり免許のため、資格のため、うまくお寺をやっていくためとなってしまいます。仏教が自分に語りかけられているものにはならないのです。

【大無量寿経講義  尊者阿難 座より起ち   一楽 真  響流書房より】

 

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 まずは、私の生死問題にケリをつける、そこが最も大事なところではないでしょうか。この文章を読んでいまして、以下、深川倫雄 師の言葉が思い出されます。
『譬えていえば、ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、「ああ、いい景色」といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、「まあ高い石垣。よく組んだもの」と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、「ようこそ、ようこそ」というわけです。調べなくとも、景色に変りはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変りはさらさらない。ないけれども、石垣を研究してみればみるほど、「ようこそ、ようこそ」とご恩が知らされる(佛力を談ず 深川倫雄 講話集P117〜P118 永田文昌堂 より)』
 仏教は何のためにあるのか、浄土真宗の教えは何のためにあるのか、しっかり見極めたいところです。まずは何をなすべきなのか。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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