如来の慈悲の結晶である名号は、手では受け取れません。耳で聞いて受け取るのです。受け取ると言えば能動的に感じられるかも知れませんが、耳は本来、能動的な器官で、自分の意志とは 無関係に嫌でも聞こえてくるものです。
耳から入った名号は、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩で濁りきった私の心のなかに、根を下ろします。煩悩のどぶは、名号にとって極めて敵地であります。どぶを養分としながら、濁りに汚染されない信心の華を咲かせます。また、この華のよい匂いを周辺に漂わせます。「なんまんだぶ、なんまんだぶ」の称名は、信心の華からこぼれ出る匂いなのです。名号はただの六文字ですが、それは如来の真実心ですから、底知れない煩悩のなかに入って、それを信心に変えてしまうのです。
阿弥陀如来の慈悲である名号は、聞くこと以外に受け取る方法はありません。聞くことによって、誰にでも受け取ることができます。学問の有無、社会的地位の高低、年齢の多少に関わらず、誰でも聞くことができ、心に大きな安らぎを得ることができるのです。
【やさしい真宗講座-み教えに生きる- 霊山勝海 本願寺出版 P74より】
南無阿弥陀仏のはたらきに垣根はありません。
ですので、
いつでも・どこでも・誰でも 南無阿弥陀仏のはたらきにふれる(気付かされる)ことができます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏