手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏

 日本の古い時代のことを書いた『古事記』を読んでいると、昔の人は、帰依の依の字に「ことよさせたまふ」という仮名を付けて読んでおります。ことよさせたまふとは、寄り、任す、ことの敬語であります。我々の仏に帰依するという南無の心は、仏が我々にことよさせ給う心である。衆生が仏によりかかりよりたのむ、これは一応のことで、こちらが頼む心がどうして起ったかというと、仏がこちらに現われて、ことよさせて下さるのだ。仏の前に頭の下がらんこの者が、頭が下がるようになるということが、仏の徳がこちらをして下げしめ給うのだ。信ずることの出来ん疑い深い者、計らいの多い者が、すっかり信ぜられて、任せられるということは、大きな仏の徳がこちらにことよさせ給い、現れて下さるからである。そうなると、この南無の二字は頼む機である。この機は仏の真実から与えて下さる機である。今日は寒いというて火鉢に寄る。火鉢の側へ寄るのは自分であるが、誰が寄らしめるのか。火だ。火の徳に呼びつけられるのだ。火鉢の所へゆく心を起こさしめるのは火鉢の火だ。その火の心で火にあたろうという心が起こるのだ。火鉢には火が燃えておるという徳と、人を寄せつけるという徳がある。阿弥陀仏の光明無量の徳も火鉢の火の徳と同じである。
 光明無量・寿命無量の仏に帰命する、南無するという心の相は、火鉢の側へ寄りつく心の相である。この阿弥陀仏の徳が我々を寄せつけて下さる。阿弥陀仏という仏が、私の胸に現われて下さる時に南無になって現われる。その南無になって現われて下さる奥には、阿弥陀仏がちゃんといらっしゃる。南無阿弥陀仏という、これは衆生の心に現われて下さった仏の名である。単に衆生を離れて仏があるなら、それは阿弥陀仏であろう。その阿弥陀仏が我が仏になって拝まれ給う時に、南無阿弥陀仏となる。

                (略)
 清沢(満之)先生が、
信ずるといふことと、如来といふことと二つの事柄があります。この二つの事柄は丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはさうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。


とおっしゃった。我々の方からいえば仏を信ずるという、仏の方からいえば助ける如来と、信ずる衆生の心と一体である。それを機法一体という。頼む機と、助け給う仏とが一体になる。そこに南無阿弥陀仏と我等の口に現われ給うのである。
【正信偈の講話 暁烏 敏 法蔵館 P54〜P56より】


清沢満之
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20160515
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20150125



阿弥陀仏の光明無量の徳を「火鉢の火の喩え」で分かり易く教えて頂きました。
「南無阿弥陀仏」は単なる文字や呪文なんかではありません。わたしの思いや想像をはるかに超えた深い意味合いといいますか、はたらきが込められています。この文章を読んでいましてあらためてそのように思いました。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏